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2016年8月15日月曜日

自分にとっての八月一五日

八月一五日は、重要な二つの日です。
一つは、わが父の命日であること。わが父は、平成四年八月一五日に病院で息を引き取りました。とても暑い日で、セミの鳴き声に悩まされた記憶が鮮明です。

もう一つは、昭和二十年の八月十五日で、が昭和天皇陛下御自らのお声を以って、「大東亜戦争終結ノ詔書」を発表された日です。過去の記録等によれば、やはり暑い日であったとされています。

自分にとって、八月一五日は猛暑の日。いつの日にからか、八月十五日は猛暑あって欲しいと考えるようになりました。それは、猛暑であった平成四年八月一五日を思いだすことが、亡き父親を考える縁になる気がするのかもしれません。

今年も、八月十五日には、実家に兄弟が集まります。自分も、この時期に夏季休暇を取得するのが、習慣です。実家に親兄弟、親戚集まって、亡き父親の供養。二十数年変わることのない、八月十五日です。

「大東亜戦争終結ノ詔書」の詔書を、昭和天皇陛下が御自らのお声で録音され、ラジオで発表されたのが、昭和二十年八月一五日。終戦記念日と呼ばれますが、法的には米合衆国艦隊の戦艦ミズーリの艦上で、大日本帝国代表と聯合国軍代表との間で締結された九月二日の休戦協定のことを指します。

しかし、この日から講和条約批准の日までが日本の降伏期間として良いと思います。自分は、戦場で倒れた英霊の御霊に感謝の念を捧げています。これも、毎年八月一五日に行う行事です。






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2016年8月14日日曜日

宮城事件 - 日本の一番長い日

昭和二十年八月一四日深夜から早朝にかけて、陸軍省と近衛師団の一部若手将校が、昭和天皇陛下の「大東亜戦争終結ノ詔書」が録音されたレコード盤の奪取を企てました。

昭和二十年八月十日、宮中で行われた最高戦争指導会議において、昭和天皇陛下の御聖断が下り、ポツダム宣言の受諾が決定しました。

その詔書は、昭和天皇陛下が御自ら録音遊ばされ、レコード盤が製作されました。製作にあたったのは、日本放送協会の技術者で、原本と副本たあったとされています。

戦争継続を主張する件の若手将校は、ポツダム宣言受諾を妨害するため、宮城の守護にあたる近衛師団長を斬殺、偽命令をもってレコード盤の奪取を図りました。

この計画は、東部軍司令官である田中静一大将が鎮圧、八月一五日に玉音放送に漕ぎ着けることができました。

この事件は、「宮城事件」と呼ばれますが、半藤一利氏のノンフィクション、「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版」に詳しいので、ご一読されることをお勧めします。

日本の一番長い日

日本のいちばん長い日 決定版

近衛師団司令部跡地 



 旧近衛師団/現在の東京国立近代美術館工芸館

2016年5月27日金曜日

皇国ノ興廃此一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ

5月27日は、海軍記念日です。帝國陸軍の心象を避けてきた陸上自衛隊と異なり、帝國海軍の伝統を継承してきた海上自衛隊は、5月27日は各地で記念式典が行なわれています。
しかし、本年は伊勢志摩サミット(G7)が行われている関係で、海上自衛隊の艦船の一部が動員されているので、少々寂しいかもしれません。

日露戦争が帝国主義による戦いだと、あからさまに非難する左翼論者がいます。自分も、完全に同意です。しかし、日露戦争が戦われたのは、まさに欧米列強よる帝国主義の時代で、自国の安全を全うするためには、致し方たない選択であったと思います。
もし、日露戦争が我国の敗北の終わった場合、北海道は露西亜帝國の州となり、ソビエト社会主義共和国連邦を経由して、現在の露西亜共和国の自治州にでもなっていたでしょう。

現在、我国は二正面に仮想敵国を想定しなければならない状況です。それは、露西亜と支那共産党です。しかし、露西亜共和国にソ連邦のような往年の軍事的脅威は下がっており、注視すべきは、支那共産党です。

支那共産党のチベットやウイグルなどへの民族弾圧、無法で強引な海洋進出による東南アふジは諸国とに軋轢は、留まる所を知りません。
現在の日米同盟は、その主たる対象を露西亜(旧ソ連邦)から、支那共産党へ完全に変換したと言ってよいでしょう。

冷戦期、ソ連邦は欧亜に跨る国家でした。従って、対ソ連邦に関してはG7加盟国も統一した見解になり得たと思えます。翻って、対支那共産党になると、欧州諸国の危機感が決定的に欠けています。それは、聯合王国のによるアジアインフラ投資銀行加盟表明を切っ掛けに、欧州諸国が雪崩を切ったことで明らかにです。そして、AIIB懐疑的な日米両国は、完全に梯子を外されました。

米国は、米英関係を欧州政策の、日米同盟を亜細亜政策の柱としてきました。それは、超大国たる米国の対外政策を、欧州においては聯合王国が、亜細亜において日本国が補完してこそです。

聯合王国の裏切りとも言いたくなる対支那政策の変更により、その影響を日米同盟がもろに受けつことになりました。

支那に傾きつつある欧州の姿を考えた時、日米同盟の重要さを再認識せざるを得ません。もし、日米同盟なかりせば、琉球列島が支那の自治区となり、日本列島が孤立しつつ立ち枯れする姿を想像せざるを得ません。

かつての露西亜帝國が現在の支那共産党、大英帝国が米合衆国という図式て捉えたほうだ分り易いと思われます。

日本共産党は、日米同盟廃止、自衛隊廃止、皇室廃止を綱領で謳ったいます。その日共と共闘する民進党、何を考えいるのでしょうか。支持率が下落するの宜なるかなと思います。

外交は利害打算の産物、政府においては国益重視の姿勢を貫いて欲しいものです。



2016年3月10日木曜日

奉天会戦と東京大空襲

1905年3月1日、元帥大山巌陸軍大将率いる大日本帝國陸軍の満洲軍が、アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン陸軍大将率いる露西亜帝國満州軍に対して、乾坤一擲の決戦を挑みました。

それまで、日本満州軍は露軍にたいして戦術的な勝利を収めていましたが、豊富な予備兵力を持つ敵軍と後備兵まで動員し、兵力が枯渇しつつあった日本軍。
そこで、児玉源太郎大将を擁する満州軍総司令部は最後の決戦で、陸戦における勝敗を明らかにし国際社会に喧伝することを狙った、政略的な要素の兼ね備えた戦いでした。

陸軍は、3月1日から10日にかけての決戦に辛勝し、露西亜側に敗北を認めさせることに成功しました。しかし、損害も日本側が多く、完勝とは言い難いものであったことが、正しく国内に伝わらなかったことが、瑕瑾なったと考えています。

ただ、そうは言っても苦戦したなかでも、辛勝した英霊に感謝することが必要と思います。

3月10日、日本軍は奉天城に入城、乾坤一擲の決戦が勝利に終わりました。その後、3月10日を以て陸軍記念日とし、1945年まで栄誉を讃えました。


1945年、米陸軍航空軍はカーチス・ルメイ陸軍少将が東京の下町地域に残虐極まりない大空襲を実施しました。この大空襲により、民間人被害は警視庁調査で以下の如くでした。

死亡:8万3793人
負傷者:4万918人
被災者:100万8005人
被災家屋:26万8358戸

しかし、実際の被害はそれ以上で、死者だけでも10万を突破したと言われています。この東京大空襲は、時として広島と長崎に対して実施された原爆攻撃の陰に隠れているような気がします。
それは、左翼勢力の暗躍により、原爆攻撃が殊更に強調される一方、東京大空襲の非人間性、民間人に対する戦争犯罪の疑いなどが蔑ろにされる傾向にある気がします。

この東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ陸軍少将は、その後空軍大将に昇進、航空自衛隊の育成に協力した功績があるとして、勲一等旭日章を受勲しています。その事実に、疑問が拭えないのは、筆者だけでしょうか。

同大将に勲章を授与を決定したのは、当時の佐藤栄作政権です。日本国憲法は、栄典の授与に関しては、以下のように定めています。

第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二  国会を召集すること。
三  衆議院を解散すること。
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七  栄典を授与すること。
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行ふこと



先帝陛下は、ルメイ大将に勲章を親授しなかったと伝えられています。

東京大空襲の犠牲者のご冥福をお祈りします。
合掌

2016年3月8日火曜日

インパール作戦発動さる

昭和十九年三月八日、南方軍麾下の緬甸方面軍がインパール作戦を発動しました。
同作戦は、第一五軍司令官牟田口廉也陸軍中将の指揮の下、歩兵第一五師団、同三一師団、同三三師団、第五飛行師団が参加しました。

参加総兵力は約92,000、戦死26,000、戦病死36,000という悲惨な敗戦でした。撤退した日本陸軍兵士の遺体によって、白骨街道とまで呼ばれるほどになったと言われています。

この悲惨な敗戦の責任を負うべきは、緬甸方面軍司令官の河辺正中将と第一五軍司令官牟田口中将を挙げなければなりません。

もともと、大本営陸軍部や南方軍の方針は、緬甸方面は積極的な防御はしても、遠くインパールまで進軍することは想定外だったとされています。それを、牟田口中将が強引に作戦立案を行い、川辺中将が確実な見込みがないのに認めてしまうことが、多くの死者を出した原因です。

この作戦には反対意見も多く、反対した第一五軍参謀長や南方軍の総参謀副長も更迭するという強引極まりないものでした。

この悲惨な作戦で戦死、戦病死した多くの英霊が戦場に眠ったままでです。幸いにして、緬甸と我が国は、比較的に友好関係にあります。この関係を活用して、少しでも多くの英霊が帰還できるように願った止みません。

2016年2月26日金曜日

226事件から80年です。

昭和十一年(1936年)は、皇道派の青年将校に率いられた下士官兵1,483名が尊皇討奸の名のもとに決起した日です。

青年将校は、近衛歩兵第第三聯隊、歩兵第一聯隊、歩兵第第三聯隊、野戦重砲兵第七聯隊などの下士官兵に非常呼集を掛けた上で実弾を配布、岡田啓介首相(予備役海軍大将)、斎藤実内大臣(予備役海軍大将)、鈴木貫太郎侍従長(予備役海軍大将)、教育総監渡辺錠太郎陸軍大将、高橋是清大蔵大臣、警視庁などを襲撃。

岡田、斉藤、鈴木の三大将を的にされた海軍の行動は素早く、宿毛湾で演習中の聯合艦隊は直ちに演習中止、第一艦隊は東京湾に急行、戦艦長門の主砲を国会議事堂に標準、第二艦隊は大阪湾に投錨し、決起部隊に呼応しないように陸軍を牽制、横須賀鎮守府の井上成美参謀長は特別陸戦隊を東京港に急派。帝國の主柱たる、海陸軍が相撃つの可能性がありました。

政府は、首相臨時代理後藤文夫内務大臣主催のもと、海軍と警視庁の反対を押し切って帝都に戒厳令を布告すること決定、東京警備司令官香椎浩平中将を戒厳司令官に任命。
戦後に公開された記録や、関係者の日記、昭和天皇実録などから、国軍の首長であり大元帥たる昭和天皇陛下は、終始決起将校の断固鎮圧を望んでいたことが明らかになっています。

軍首脳を悩ませたのは、決起将校はともかく、上官の命令として叛乱に参加した下士官兵でありました。彼らは、上官の命令に素直に従っただけであり、討伐部隊の銃口の前に晒された事自体、不本意であったでしょう。

帝都東京は、正に未曾有の危機に見舞われたと言ってよく、陸軍首脳部の煮え切らない態度に痺れを切らした大元帥陛下の叱咤に、とうとう戒厳司令官が討伐の奉勅命令の実行を決断、関東各地から集められた鎮圧部隊の圧力もあり、決起将校も部隊の原隊復帰を決断しました。

筆者は、決起将校の國を憂う気持ちを良しとしますが、国軍を正式の命令なしに私に動かしたこに関しては非難します。
昨年の安全保障法制反対論者の中かに、この事件のことを持ち出す人士は少なくありませんでした。確かに、この事件は軍紀の面から見て、甚だ面白くないものです。しかし現在の自衛隊は、完全に政府の統制のものにあり、間違っても反乱を起こす可能性は限りなく零に近いものです。

この事件は未だに謎が多く、当時の皇道派の高級将校が影でどのように立ち回っていたかなど、今後も解明が望まれることが少なくありません。

226事件から80年、改めて日本近代史の大事であったこの出来事を振り返ってみることが重要です。

2016年2月8日月曜日

「久米の歴史 その生い立ちと時々の物語」

「久米の歴史 その生い立ちと時々の物語」

所沢市は、複数の町村が合併して誕生しました。旧町と呼ばれる地域は旧所沢町。その隣にあったのが、久米村。現在の久米に宮本町、南住吉、西住吉、東住吉、星の宮、松ヶ丘などを含む、広い領域でした。その久米村の歴史を綴った郷土誌が、久米中町町内会より発行されました。

幕府の旗本の知行地が大半を占めていた、久米村の歴史などが解説されています。

所沢は、そのほかに山口村、三ケ島村、荒幡村、富岡村、小手指村、柳瀬村、松井村、北秋津村が独自の村落自治を行っており、川越藩の藩庁の統制にあった川越市との違いが見て取れます。

現在も、かつての村落自治の名残が,市内各地の神社や寺院の祭礼に色濃く残っていると言えるのかもしれません。

この郷土史、所沢の歴史を語る貴重な文献資料だと思います。この郷土史の編纂にあたった下田博之氏と「久米の歴史を綴る会」の皆さん、久米中町町内会の皆さんに敬意を表します。


所沢市立図書館にも収蔵されています。本館と一部の分館で貸し出しを行っているので、是非ご一読をお願いします。

2016年1月16日土曜日

小野田寛郎陸軍少尉逝去から二年

1月16日は、小野田寛郎帝國陸軍少尉が逝去された日です。
二年前、小野田氏去の報が流れた時、少尉の戦後がようやく終わったのだと思いました。

小野田少尉にとって、比国治安部隊に軍刀を差し出した昭和49年3月9日までが、帝国陸軍将校としての戦闘中であったのだと思います。
少尉は救出されたのではなく、直属の上官から発せられた命令下達を得て戦闘を停止してフィリピン軍に投降したのであり、少尉の意識としては、あくまで降伏であったのだと筆者は確信しています。



  1. 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
  2. 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
  3. 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。

    第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美


上記は、フィリピン軍に投降した際に上官から受けた命令書です。尚武集団作命甲第2003号は、大日本帝國陸軍の南方軍に所属していた第一四方面軍司令官山下奉文大将が、指揮下の部隊に発した命令です。小野田少尉は、この命令書が無ければ戦闘停止ができないとしたのです。
中には時代錯誤と言う方がいるかもしれません。しかし、筆者は小野田少尉による昭和49年までの戦いを了とします。
小野田少尉の凛とした、帝国陸軍最後の敬礼姿に敬意を評します



2015年12月8日火曜日

帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり - 外交から考える

74年前の12月8日未明、帝國海軍の海上戦力の主力、第一航空艦隊が開戦劈頭、米合衆国太平洋艦隊主力を布哇真珠湾において奇襲攻撃、戦艦部隊に大打撃を与えました。



海軍の聯合艦隊だけでなく、陸軍の南方軍も東南亜細亜方面への作戦計画を発動、米英両国との戦闘状態になった日です。

大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり

最近、SEALDsなる礼儀を弁えない無法の輩が脚光を浴びています。そして、その無法の輩に媚を振る情けない民主、日共などの野党。
もう一年の終わりも間近ですが、大東亜戦争 とは何だったのか、今少し真剣に総括すべきと思います。
しかし、現実認識に著しく欠けた野党があれじゃ、期待薄です。特に、岡田代表、枝野幹事長、辻元清美、R4辺りが、相も変わらず民主党を牛耳っているので、一強多弱は体制はしばらく変わらないでしょうね。

時の大日本帝國が、何故あのような無謀といえる多国間戦争に突入したか。それに関しては、数々の議論がり、その要因を一つに言い切ることが不可能でしょう。しかし、一つの、そして重要な要因に外交的孤立があるでしょう。

1902年の日英同盟は、その後の日本の国際関係の基軸でした。日英同盟を背景にして、日露戦争を戦い、辛うじての勝利を勝ち取りました。そして、1923年の同盟失効を期にして、外交的経済的に孤立していきます。

現在は、日米同盟を基軸として国家の安全保障を保っています。日本の近代史を省みるに、外交的経済的な孤立は断じて避けなければなりません。

その際、外交の基軸となり友好国は支那でしょうか。露西亜でしょうか。南北朝鮮でしょうか。これら国家は、地政学に言って大陸国家です。日本は、これらの国家と違って海洋国家です。我が国は、日英同盟、日米同盟のように海洋国家として、歩んで行くべきです。
その意味で、国力が落ちてきた米国を補完する限定的集団自衛権とTPPは、外交的経済的に必要な政策転換だと確信します。




2015年12月2日水曜日

三笠宮崇仁親王殿下 - 百寿を迎えられました

本日12月2日は、先帝陛下の大四皇子であらせられる三笠宮崇仁親王殿下の100歳、百寿の御生誕日です。

【三笠宮さま100歳】運動ご日課 健康維持

大殿下は、今上天皇陛下の御叔父にあたられ、称号は澄宮、お印は若杉、最長老の皇族であれせられます。

大殿下は、皇族方の中で唯一の軍務経験であらせられます。昭和十一年に陸軍士官学校第四十八期を騎兵科として御卒業、その後は陸軍騎兵学校、陸軍大学校第五十五期を卒業し、軍務に御精励あらせられました。

大殿下は、支那派遣軍総司令部に若杉参謀と言う秘匿名でして勤務されましたが、そのことは総司令部内でも極秘とされ、総司令官以下極小数の関係者のみが知ることでした。
それは、大殿下の安全確保が目的でしたが、あくまで一軍人として待遇を求めたれた大殿下の御希望でもあったと言われています。

戦後は、歴史学を研究され、中でも古代オリエント史に造詣が深くあらせられ、幾つかの大学で教鞭をとられました。

皇室は、慶事が続いています。11月28日に常陸宮正仁親王殿下が傘寿の御誕生日、11月30日に秋篠宮文仁親王殿下、12月1日は敬宮愛子内親王殿下と御誕生日が続いています。
皇室は、我が国伝統文化の根源であります。その皇室最長老の三笠宮崇仁親王殿下が百寿を迎えられたことをお祝う申し上げます。

皇弥栄

三笠宮崇仁親王殿下


 三笠宮殿下ご夫妻


左より先帝陛下、今上陛下、故高松宮殿下、三笠宮殿下

2015年11月25日水曜日

憂国記 - 三島由紀夫没後45年

本日は憂国忌、作家で憂国の士、三島由紀夫が「楯の会」の同志と自衛隊の決起を促すために、陸上自衛隊東部方面総監室に立て篭もり、志が叶わないとみると学生長の森田必勝と共に割腹自殺を図った事件から45年です。

この事件は、TVニュースや新聞、週刊誌で大きく取り上げられ、子供心にも記憶している衝撃的な事件でした。

作家としてノーベル文学賞候補とも目された才能豊かな作家が、何故にこのような時代錯誤とも思える事件を引き起こしたのか。それを理解するためには、当時の時代状況、近代史、戦後史を理解する必要があると思います。

三島は、決起の理由として憲法改正を挙げています。当時の政治情勢は、現在では信じられないほど、左翼全盛でした。当時は、ソ連などの東側諸国、支那や北朝鮮などの共産主義陣営を批判することは禁忌でした。
警察も批判の対象であり、造反有理は毛沢東の専売特許ではなく、日本国内でも左翼陣営が無理難題を押し通す格好の脅し文句、「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と嘆いた白河院の気持ちは、当時の為政者も同様であったでしょう。

そうした時期の自衛隊は、その存在価値は全く否定的なもので、災害派遣や国際貢献での献身的な活躍で、国民の半数以上が自衛隊の存在を認知している現在では、全く信じがたい状況でありました。

三島は、明確な自衛隊は武装組織、国防組織であり、栄誉有る存在であるべき陸海空自衛隊員達が、日陰者として左翼陣営の非難の対象になっていることに、憤りと矛盾を感じていたと言われており、筆者も同感です。

三島の感じた矛盾は、突き詰めると憲法の存在、あり方に通じてきます。国家の在り方、皇室、伝統、文化、美意識など様々な問題意識が、三島にあったのだと思います。

折しも、今年は安全保障法制の問題で、国民の政治意識が高まったと言われています。しかし、SEALDsと呼ばれる集団の粗雑で幼稚な問題認識、近代史に関する無知、福島瑞穂ようなレッテル貼りに熱を上げ、本質的な議論をしない国会議員達の見識の無さ、ノスタルジーに浸った全共闘世代の妄想、ファッション感覚で安全保障を語る芸能人。これで、本当に政治意識が高まったのでしょうか。

日本共産党は、安倍政権打倒のため、一時的に自衛隊を容認するといして、国民連合政権構想を発表しました。これ、国民をバカにしきった構想ですね。安倍政権を打倒した後は、直ちに選挙を行い、新たな政権を樹立するのだそうです。

ようやく安全保障法制が成立しました。しかし、日本の安全を保障するためには、三島が主張したように憲法改正が必要と思います。三島の決起から45周年。三島の願望が果たされる日が、一刻の早く訪れることを望んでいます。

三島由紀夫没後45年(上)】 決起した元会員、貫く沈黙 肩の刀傷…今も悔いなく

【三島由紀夫没後45年(中)】 狙撃覚悟「建軍の本義」問う 元会員「森田さんがもちかけた」 文学ではなく行動に託す

三島由紀夫没後45年(下)】 三島に斬られ瀕死の元自衛官「潮吹くように血が噴き出した」

【三島由紀夫事件】 三島由紀夫の遺書全文 「夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現すること」

【三島由紀夫事件】 三島由紀夫の命令書 「皇国日本の再建に邁進せよ」

【三島由紀夫事件】 三島由紀夫の檄文 「敢てこの挙に出たのは自衛隊を愛するが故」

【三島由紀夫事件】 三島由紀夫と行動を共にした楯の会会員の証言集(裁判での発言や上申書)





















2015年11月17日火曜日

世界の皆さん 神風は、テロ行為ではありません。

パリで発生した憎むべきテロ事件が発生しました。今回のような卑劣なテロ事件が発生すると、このような論調が必ず出てくると危惧していましたが、予想の通りです。

まず第一に申し上げたいのは、大東亜戦争、太平洋戦争の体当たり攻撃で散華した帝國陸海軍将兵は、間違ってもテロリストでないと言うことです。

国際法で、自衛を除く戦争が犯罪行為になったのは戦後のことです(国際連合憲章第二条)。それまでは、戦争行為そのものは、戦時国際法たるハーグ条約や国際的な慣例法においても違法ありませんでした。

日本陸海軍の体当たり攻撃は、軍事目標に対して実施されたものであり、民間人を対象にしたテロ行為ではありません。
(小生は、体当たり攻撃そのものは、大西瀧治郎海軍中将の言にあるように統率の外道だと思います。しかし、体当たり攻撃で散華しした英霊には、感謝の念を捧げます)

国外ばかりでなく日本国内においても、英霊の御霊に唾する言論をなす輩がいるようです。重ねて強調します。日本陸海軍将兵の体当たり攻撃は、合法的な行為(当時の国際法上は)であり、決してテロ行為ではありません。

世界の皆さん。過激派のテロ行為と、靖國神社の英霊を同じではありません。誤解なさらないようにお願い申し上げます。

自爆テロ犯は「カミカズ」仏報道で「神風特攻隊」を誤解?

特攻隊は「テロリストとは違う」「戦友への侮辱だ」 仏報道に88歳元隊員憤り

2015年9月8日火曜日

「サンフランシスコ講和条約」と「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧)」について(1)

本日は、「日本国との平和条約」所謂サンフランシスコ条約と「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)が締結された日です。

現在、国論を二分していると思われる安全保障法制は、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約(旧)と(新)との関係、その間の国際情勢を考察しながら検討する必要あがると考え、拙文を起草致しました。

両条約の前年であり1950年には、朝鮮戦争が勃発しています。また、警察予備隊も発足、日本の再軍備路線が明確になりました。
サンフランシスコ条約の締結にあたっては、日本国内においては、朝野を巻き込んだ大論争が巻き起こりました。米国が主導する西側諸国との講和を目指した単独講和派と、ソ連を盟主とした東側諸国おも講和の対象にした全面講和派との対決でした。

全面講和論は、南原繁東大総長を代表とする学者が中心となり、日本は厳正中立を保ち、国外から全ての外国軍隊を撤収すべきという立場でした。それに、左翼陣営が賛同、後の非武装中立路線にも繋がっていきます。

単独講和論は、米国を中心とした西側諸国との講和を優先し、日本が完全に資本主義陣営に参加することを目的としていました。

単独講和は、米国との同盟関係を基軸として安全保障重視路線、全面講和は非武装中立に繋がる平和路線と言えるでしょう。これは、現在の安全保障法制論争に相通ずるところがあります。

両派の論争は、後に進歩的文化人(今は死語なりました)と呼ばれる左派言論人と、現実論に立脚した保守派言論人との言論闘争でもありました。

時の総理大臣の吉田茂は、東大総長南原繁に対して「曲学阿世の徒」と厳しく非難、南原も吉田に対して学者に対する権力的弾圧と指弾しました。
後の総理大臣である佐藤栄作自由党幹事長は、「政治的観点から現実的な問題として講和問題を取りとりあげている」と、学者達を非難しています。
南原は、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張しました。当時も単独講和論が優勢であった訳ではありません。もしかしたら、逆であった可能性もあります。
これは現在の安全保障法制で、反対派が使うレッテルと瓜二つです。つまり、安全保障法制反対派こそが、全国民の欲するところという訳です。

自分は、南原東大総長の言う全問講和に固執していたら、日本の独立は遅れていたと思います。それは、当時の東西冷戦の進展した状況において、米国が自陣営からの日本の離脱を認めるとは思えません。全面講和とは、中立とは言いながら、当時の左翼系言論人の本音は、ソ連に融和的であったからです。

当時の現実論と理想論との言論対立は、現在も同様であろうと思います。共産支那は、話し合いで何でも解決できる相手と見るか、その軍備拡張に危機意識を持つか。

自分は、危機感と持つ立場から安全保障法制に賛成しています。今回の安全保障法制では、戦後の近代史からの観点からの考察も必要と思いますが、反対派の論拠は、情緒論に終始して、現実論に立脚した思考が欠けているのは、全面講和論と相通ずるところがあるとしたのは、以上の理由からです。

本稿は、以降も続きます。

2015年8月15日土曜日

終戦記念日に思う

2015年、平成27年の終戦記念日は、戦後70年の筋目の年でもあり、様々な政治力、国家が何かかと注文を付けています。しかし、そうしたことを抜きにして、国家のために尽くされた英霊に感謝の念を捧げたいと思います。

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平成26年(2014年)8月15日のBlog
8月15日に思うこと - 父親の命日と終戦記念日

昨年のBlogの雑文です。ただ、考えは昨年と全くかわってませんので、重複しても致し方ないのでリンクをさせて頂きます。
ただ、一点だけ思うのは8月15日は、昭和天皇陛下の玉音が放送された日であり、自帝國陸海軍全軍に自衛行動以外の戦闘の停止が支持されました。したがって、自衛行動以外の戦闘行為は、継続されました。

法的に大日本帝国が連合国代表に降伏したのは、昭和20年9月2日です。8月15日は、先帝陛下が、前日に公布された大東亜戦争終結ノ詔書を朗読された日というのが、正式な経緯だと認識ています。

8月15日以後も、ソ連軍と占守島を守備する陸海軍部隊の戦闘(占守島の戦い)は続きました。その結果、ソ連軍による北海道北半分の占領統治を防ぐことができた事実を忘れてはいけないと思います。

雑感でした。

2015年8月14日金曜日

戦後70年談話について

安倍首相が、戦後70年に関する談話を閣議決定、発表しました。民主党、共産党など反対することしか知らない、全く役に立たない政党からは意義が申し立てられていますが、西洋列強の植民地支配から書き起こされ、第一次世界大戦、満州事変などの歴史的経緯にも触れ、我が国が法の支配を重んじた国造りをしてきたとこと堂々と表明しています。また、引用の形であろうとお詫びの表現を盛り込まれています。
法に支配に馴染まない、支那、半島にとっては不満足な談話でしょうが、印度尼西亜や豪州からは、評価する声明が出されています。支那、半島はの反応は気にする必要ないので、満足すべき談話だったとおもいます。


戦後70年の安倍首相談話の全文は以下のとおり。
 終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
 百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
 そして七十年前。日本は、敗戦しました。
 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
 先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
 何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
 これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
 ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
 ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
 戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
 戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
 寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。
 しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
 私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
 そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
 私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
 私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
 私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
 終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
 平成二十七年八月十四日
 内閣総理大臣 安倍晋三

2015年8月9日日曜日

ソビエト社会主義共和国連邦の対日参戦の日 ― 明らかな国際違反行為

※原文から、一部追記しました

2015年8月9日は、米陸軍航空軍により長崎市原子爆弾が投下されて70年になります。
広島への原爆投下と並び、非戦闘員非戦闘地域を対象にした非人道的行為で、国際法違反でないかとする議論があります。小生も、ハーグ条約に違反する行為として、糾弾したい思いがあります。

そして、8月9日は国際的な事件が起きた日でもあります。それは、ソビエト社会主義共和国連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦した、悲劇の日です。

ソ連軍による婦女子への陵辱、略奪とうの悪辣行為は凄まじく、それは欧州方面のドイツの婦女子が辿った悲劇と同様でありました。

(青字は、追記部分です)

戦後、日本の左翼陣営は、原爆の被害を語ることには熱心でも、ソ連の国際法違反は特段の反応を示しませんでした。そして、その傾向は未だに続いていると言って差し支えないと思います。

当時の関東軍は、第一線戦力を南方に引き抜かれており、それを補うため18歳から45歳の青壮年男子は根こそぎ動員され、兵役に就いていました。関東軍首脳部は、不可解にも総司令部を移転してしまいましたが、多くの将兵は兵力で勝るソ連軍に対して勇戦敢闘、一部は在留邦人の脱出に成功しました。

小生の父親一家は、満州に居留していたことがありました。満州から、台湾、札幌、福岡と転居したため、ソ連軍による略奪からは免れることができました。しかし、亡父は昭和二年生まれであったので、満州時代の知人、友人のなかに兵士として戦死し、またソ連軍によって略奪の犠牲になった人がいたと聞かさています。

ボツダム宣言では、日本軍将兵は遅滞なく復員するものとされていました。しかし、ソ連はそれを無視、数十万の将兵が塗炭の苦しみを味合うことになりました。

※ボツダム宣言第9項

九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
父親は、亡くなるまでソ連を許さず、共産主義を許さず、日本の防衛力向上を支持し、日共、社会党、新左翼過激派を嫌悪していました。
8月になると、原爆や終戦の日の特集を行い、戦争の時代の経験者の話として、反戦平和、反米、反保守の宣伝に一生懸命です。しかし、おなじ時代を生きた経験者として、我が父もいます。自分も、我が父から聞かされた話を語り継いていこうと思います。

よく、かつての日本陸海軍将兵が、反戦を語る場面が登場しますが、故小野田寛郎少尉のように、靖國神社に参拝し、日本の安全を憂慮していた元将兵もいます。公平な報道をお願いしたいものです。


大江健三郎さん、福島瑞穂さん、辻元清美さん、吉永小百合さん、関口宏、民主党のお歴々。
あの国際法違反行為に関して、諸氏の考えを聞かせて頂きたいものです。

ソ連軍157万人が満州侵攻 戦車に潰された王道楽土の夢

ソ連対日参戦

2015年8月6日木曜日

文化勲章受章者の阿川弘之氏が死去されました

訃報です。
文化勲章受章者の阿川弘之氏が、死去されました。

作家の阿川弘之氏が死去 文化勲章受章者、正論執筆メンバー

作品支えた海軍体験 中庸とユーモア愛し

評伝【阿川弘之さん死去】若者の被災地支援に「日本は大丈夫」

氏の代表作は、「山本五十六」、「米内光政」、「井上成美」の海軍三部作でしょう。
海軍関係では、その他に「軍艦長門の生涯」、「海軍こぼれ話」、「雲の墓標」、「暗い波濤」などを読みました。その他にエッセイが、「国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録」、「国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論」、「高松宮と海軍」、「山本元帥!阿川大尉が参りました」などなど。
ある思想傾向にある方々、例えば辻元清美氏、田嶋陽子氏、福島瑞穂氏などからは、右翼反動軍国主義者的作家ということになるのでしょうかね。ただ、阿川氏は相手にしなかったと思います。

氏を語る上で外せないのは、朝日新聞や毎日新聞などの偽善的な左翼マスコミが大嫌いであったこと。かつて、軍部に迎合したマスコミが、連合軍による占領下では踵を返したように反軍部に転向、その後はソ連や支那に媚を売っていたことが許せず、一貫して批判し続けていたこと。
昨年、朝日新聞の所謂「従軍慰安婦」問題で誤報を認めたことを、如何に考えていたか興味があるところです。

氏が師事した作家の伝記「志賀直哉」も、長編でしたが完読しました。しかし、何と言っても、最も面白かったのは月刊文藝春秋に連載された巻頭随筆の「葭の髄から」。

阿川氏の前の巻頭随筆が、司馬遼太郎氏が執筆された「この国のかたち」でしたが、文藝春秋の看板企画だけあって、甲乙つけ難いものがありました。ちなみ、阿川氏が海軍予備学生、司馬遼太郎氏が陸軍甲種幹部候補生出身でした。お二人の著書を読んでいると、海軍時代を懐かしむ阿川氏、批判的な司馬氏と対照的でした。

それは、海軍予備学生が任官同時に海軍上等兵曹の上、少尉候補生の下という破格の待遇を受けたからでしょうね。
陸軍は、士官教育方針として一等兵の苦労から味合わせるという方針を最後まで堅持しました。従って、兵隊の苦労をしたくないエリートは、挙って海軍の予備学生、予備生徒などに志願したそうです。

小生の伯父は、旧制中等学校を卒業すると、旧制高等商船学校に入校しました。当時の制度では、同時に海軍の兵籍に編入され、高等商船学校生徒兼海軍予備生徒になりました。
これが、どれだけの待遇かというと、街中で陸海軍の下士官は、二十歳前の海軍予備生徒である伯父を見かけた場合、先に敬礼を行い然る後に答礼を受けなければなりませんでした。それは、戦場経験豊かな古参兵でも同様で、海軍の身分差別が如何に激しかったかを物語るものでしょう。従って、海軍の予備学生、予備生徒出身者と陸軍出身者に意識の差があっても致し方ないと思います。

(太平洋戦争中でありましたら、卒業と同時に海軍予備士官として出陣すること予定さていました。
伯父は、そのことに関しては淡々と受け止めていたようで、任務だったのだと気負いをせずに話してくれたことがありました。)


阿川氏は、大江健三郎某氏と確執があったことは有名で、ご本人も隠していませんでした。大江健三郎某氏は、それを遠回しに匂わしていましたが、名言はしませんせした。小生は、それに偽善的な、何とも言えないあざとさを感じており、決して好感が持てません。
現在の大江某氏は、反原発、憲法九条の会などの活動に熱心ですが、その余りにも観念的に過ぎる思考にも、非合理性を感じるのみです。同じことは、美輪明宏某氏にも言えますが、自分からみれば、両氏とも偽善的にしか思えず、相容れないですね。

意外だったのは、『きかんしゃ やえもん』の文書が阿川氏の作品と知った時。児童文学書も、執筆されていたのですね。

94歳、大往生と言えますが、惜しい方が死去されました。残念でなりません。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌

2015年7月26日日曜日

三式戦闘機飛燕の部品、発見さる

岐阜新聞のWebで興味ある記事を発見しました。それは、大日本帝国陸軍が、唯一採用した水冷式発動機を搭載した三式戦闘機の部品が川崎重工岐阜工場で発見されたとのニュースです。

日本陸海軍は、一式戦闘機隼、零式艦上戦闘機など各種戦闘機を戦場に送り出しましたが、水冷式発動機を搭載したのは、三式戦闘機飛燕だけでした。しかし、三式戦闘機は成功したとは言い難く、その理由は当時の日本工業技術が未熟で、水冷式発動機を持て余したからです。
戦争というものは、最新の軍事技術の対決でもあります。この点からも、太平洋戦争というものが無謀であったことの証であろうとおもいます。

安全保障法制により、限定的集団的自衛権で国家の安全を担保、武器輸出三原則の緩和で国際共同開発で、大陸の東アジア某国、欧亜にまたがる某国、半島北部の某国に共同で対処することの合理性が理解できると、小生が思います。


歴史伝える「飛燕」部品 各務原市の民家などで相次ぎ発見

三式戦闘機

2015年7月17日金曜日

安全保障法制、衆院で可決 - 自分は賛成です。

2015年7月16日。衆議院本会議で可決されました。この後は、参議院に送付され、審議されることになりました。

今回の法案は、歴史的な転換点となりえる内容を踏まえています。米国が影響力が低下、大陸の某国の海洋浸出が拡大いしていることを考える、日米豪三カ国の連携強化が不可欠です。

大陸の某国が企てている南シナ海への浸出を考えると、本法案は賛成せざるを得ません。
本来なら、比国や越南、馬来西亜、泰王国、新嘉坡、印度尼西亜などASEAN諸国との集団安全保障体制構築が望まれますが、最初の一歩として今回の法案可決は喜ばしいことだと考えます。

おそらく、朝から日共が朝から安全保障法制反対の街宣を行っているいるでしょう。いつも通り、安全保障法制賛成を、堂々と主張してまいります。

参考に
最近、若い学生や女性の殆どが安全保障法制反対だとう雰囲気です。しかし、賛成派もいます。
ネットでは有名なRandomyokoさんが、安全保障法制賛成派のデモを敢行されました。その様子をアップした動画です。

【女性&学生街宣】戦争反対=安保法制賛成!

2015年5月27日水曜日

海軍記念日

527日は、海軍記念日です。海軍記念日は、日露戦争において東郷平八郎海軍大将率いる聯合艦隊と、ロジェストヴェンスキー海軍中将率いる露西亜帝國海軍第二・第三太平洋艦隊が対馬沖で激突、帝國海軍が勝利した日を記念して制定されました。

日露両海軍が死力を尽くして戦った日本海海戦は、1905527日。つまり、日露両海軍の激突から丁度110年になります。今年は、太平洋戦争の終結から70年ということで、安倍首相が発表する予定の談話が話題になっていますが、この日本の近代史を飾る歴史的事件にも関心を持つべきと思います。

自分は、現在の歴史教育において、どうしても近代史の教育が蔑ろにされる嫌いがあると認識しています。中でも、日清、日露両戦役をどのように評価するかで、肯定派と否定派が真っ二つになりますね。

 某民主党の辻本清美氏、某社民党の福島瑞穂氏、作家の某大江健三郎氏、二流俳優の関口宏氏、三流役者の某山本太郎、自分達は常に正しく無謬と信ずる宗教集団の某日本共産党などは、日本近代史の徹底的な否定派ですね。少しでも肯定的な評価でもしようものなら、右翼反動軍国主義者呼ばわりです。

 自分は、少なくとも日清日露の両戦役は、日本の近代史から考えて必要な戦いであったと考えています。中でも日露戦役は、あれが敗戦に終われば、北海道がロシア帝國の属州になったという想像を捨てることができません。その前に、日露戦争そのものをしなければよかったという楽観論もありますが、それに与することのできません。
当時の情勢から考えると、ロシア帝國は満州を事実以上の占領下に置き、朝鮮半島に進出を目論んでいました。日本が手をこまねいていると、朝鮮半島を手に入れたロシアが、北海道や対馬に触手を伸ばして来たであろうことをは、幕末の同帝国の動向みて明らかです。
時は、帝国主義の時代、なかでもロシア帝國の拡張主義は、その後のソビエト社会主義帝國、現在のプーチン政権を彷彿させるものがあります。

当時のロシア帝國の拡張主義を鑑みれば、日露の戦いは不可避であったというのが、自分の考えです。それを以って、右翼反動軍国主義者と呼ぶのなら、それで結構です。自己の考えを彼らに否定される謂れはありませんから。

日本海海戦のあと、日露講和談判が開催されて95日にポーツマス条約調印、1014日に批准されました。自分は、その後の戦後処理に関して、引き続き考えて行きたいと思います。1905年から1945までの40年間におきた出来事が、外国の軍隊の占領下に置かれるという、歴史上未曾有の出来事になり、そして現在日本のあり方に決定的な影響を及ぼしたと考えるからです。