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2016年8月15日月曜日

自分にとっての八月一五日

八月一五日は、重要な二つの日です。
一つは、わが父の命日であること。わが父は、平成四年八月一五日に病院で息を引き取りました。とても暑い日で、セミの鳴き声に悩まされた記憶が鮮明です。

もう一つは、昭和二十年の八月十五日で、が昭和天皇陛下御自らのお声を以って、「大東亜戦争終結ノ詔書」を発表された日です。過去の記録等によれば、やはり暑い日であったとされています。

自分にとって、八月一五日は猛暑の日。いつの日にからか、八月十五日は猛暑あって欲しいと考えるようになりました。それは、猛暑であった平成四年八月一五日を思いだすことが、亡き父親を考える縁になる気がするのかもしれません。

今年も、八月十五日には、実家に兄弟が集まります。自分も、この時期に夏季休暇を取得するのが、習慣です。実家に親兄弟、親戚集まって、亡き父親の供養。二十数年変わることのない、八月十五日です。

「大東亜戦争終結ノ詔書」の詔書を、昭和天皇陛下が御自らのお声で録音され、ラジオで発表されたのが、昭和二十年八月一五日。終戦記念日と呼ばれますが、法的には米合衆国艦隊の戦艦ミズーリの艦上で、大日本帝国代表と聯合国軍代表との間で締結された九月二日の休戦協定のことを指します。

しかし、この日から講和条約批准の日までが日本の降伏期間として良いと思います。自分は、戦場で倒れた英霊の御霊に感謝の念を捧げています。これも、毎年八月一五日に行う行事です。






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終戦記念日と命日と高次脳機能障害 再掲

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終戦記念日に思う

2016年8月14日日曜日

宮城事件 - 日本の一番長い日

昭和二十年八月一四日深夜から早朝にかけて、陸軍省と近衛師団の一部若手将校が、昭和天皇陛下の「大東亜戦争終結ノ詔書」が録音されたレコード盤の奪取を企てました。

昭和二十年八月十日、宮中で行われた最高戦争指導会議において、昭和天皇陛下の御聖断が下り、ポツダム宣言の受諾が決定しました。

その詔書は、昭和天皇陛下が御自ら録音遊ばされ、レコード盤が製作されました。製作にあたったのは、日本放送協会の技術者で、原本と副本たあったとされています。

戦争継続を主張する件の若手将校は、ポツダム宣言受諾を妨害するため、宮城の守護にあたる近衛師団長を斬殺、偽命令をもってレコード盤の奪取を図りました。

この計画は、東部軍司令官である田中静一大将が鎮圧、八月一五日に玉音放送に漕ぎ着けることができました。

この事件は、「宮城事件」と呼ばれますが、半藤一利氏のノンフィクション、「日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版」に詳しいので、ご一読されることをお勧めします。

日本の一番長い日

日本のいちばん長い日 決定版

近衛師団司令部跡地 



 旧近衛師団/現在の東京国立近代美術館工芸館

2016年5月27日金曜日

皇国ノ興廃此一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ

5月27日は、海軍記念日です。帝國陸軍の心象を避けてきた陸上自衛隊と異なり、帝國海軍の伝統を継承してきた海上自衛隊は、5月27日は各地で記念式典が行なわれています。
しかし、本年は伊勢志摩サミット(G7)が行われている関係で、海上自衛隊の艦船の一部が動員されているので、少々寂しいかもしれません。

日露戦争が帝国主義による戦いだと、あからさまに非難する左翼論者がいます。自分も、完全に同意です。しかし、日露戦争が戦われたのは、まさに欧米列強よる帝国主義の時代で、自国の安全を全うするためには、致し方たない選択であったと思います。
もし、日露戦争が我国の敗北の終わった場合、北海道は露西亜帝國の州となり、ソビエト社会主義共和国連邦を経由して、現在の露西亜共和国の自治州にでもなっていたでしょう。

現在、我国は二正面に仮想敵国を想定しなければならない状況です。それは、露西亜と支那共産党です。しかし、露西亜共和国にソ連邦のような往年の軍事的脅威は下がっており、注視すべきは、支那共産党です。

支那共産党のチベットやウイグルなどへの民族弾圧、無法で強引な海洋進出による東南アふジは諸国とに軋轢は、留まる所を知りません。
現在の日米同盟は、その主たる対象を露西亜(旧ソ連邦)から、支那共産党へ完全に変換したと言ってよいでしょう。

冷戦期、ソ連邦は欧亜に跨る国家でした。従って、対ソ連邦に関してはG7加盟国も統一した見解になり得たと思えます。翻って、対支那共産党になると、欧州諸国の危機感が決定的に欠けています。それは、聯合王国のによるアジアインフラ投資銀行加盟表明を切っ掛けに、欧州諸国が雪崩を切ったことで明らかにです。そして、AIIB懐疑的な日米両国は、完全に梯子を外されました。

米国は、米英関係を欧州政策の、日米同盟を亜細亜政策の柱としてきました。それは、超大国たる米国の対外政策を、欧州においては聯合王国が、亜細亜において日本国が補完してこそです。

聯合王国の裏切りとも言いたくなる対支那政策の変更により、その影響を日米同盟がもろに受けつことになりました。

支那に傾きつつある欧州の姿を考えた時、日米同盟の重要さを再認識せざるを得ません。もし、日米同盟なかりせば、琉球列島が支那の自治区となり、日本列島が孤立しつつ立ち枯れする姿を想像せざるを得ません。

かつての露西亜帝國が現在の支那共産党、大英帝国が米合衆国という図式て捉えたほうだ分り易いと思われます。

日本共産党は、日米同盟廃止、自衛隊廃止、皇室廃止を綱領で謳ったいます。その日共と共闘する民進党、何を考えいるのでしょうか。支持率が下落するの宜なるかなと思います。

外交は利害打算の産物、政府においては国益重視の姿勢を貫いて欲しいものです。



2016年3月10日木曜日

奉天会戦と東京大空襲

1905年3月1日、元帥大山巌陸軍大将率いる大日本帝國陸軍の満洲軍が、アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン陸軍大将率いる露西亜帝國満州軍に対して、乾坤一擲の決戦を挑みました。

それまで、日本満州軍は露軍にたいして戦術的な勝利を収めていましたが、豊富な予備兵力を持つ敵軍と後備兵まで動員し、兵力が枯渇しつつあった日本軍。
そこで、児玉源太郎大将を擁する満州軍総司令部は最後の決戦で、陸戦における勝敗を明らかにし国際社会に喧伝することを狙った、政略的な要素の兼ね備えた戦いでした。

陸軍は、3月1日から10日にかけての決戦に辛勝し、露西亜側に敗北を認めさせることに成功しました。しかし、損害も日本側が多く、完勝とは言い難いものであったことが、正しく国内に伝わらなかったことが、瑕瑾なったと考えています。

ただ、そうは言っても苦戦したなかでも、辛勝した英霊に感謝することが必要と思います。

3月10日、日本軍は奉天城に入城、乾坤一擲の決戦が勝利に終わりました。その後、3月10日を以て陸軍記念日とし、1945年まで栄誉を讃えました。


1945年、米陸軍航空軍はカーチス・ルメイ陸軍少将が東京の下町地域に残虐極まりない大空襲を実施しました。この大空襲により、民間人被害は警視庁調査で以下の如くでした。

死亡:8万3793人
負傷者:4万918人
被災者:100万8005人
被災家屋:26万8358戸

しかし、実際の被害はそれ以上で、死者だけでも10万を突破したと言われています。この東京大空襲は、時として広島と長崎に対して実施された原爆攻撃の陰に隠れているような気がします。
それは、左翼勢力の暗躍により、原爆攻撃が殊更に強調される一方、東京大空襲の非人間性、民間人に対する戦争犯罪の疑いなどが蔑ろにされる傾向にある気がします。

この東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイ陸軍少将は、その後空軍大将に昇進、航空自衛隊の育成に協力した功績があるとして、勲一等旭日章を受勲しています。その事実に、疑問が拭えないのは、筆者だけでしょうか。

同大将に勲章を授与を決定したのは、当時の佐藤栄作政権です。日本国憲法は、栄典の授与に関しては、以下のように定めています。

第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二  国会を召集すること。
三  衆議院を解散すること。
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七  栄典を授与すること。
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行ふこと



先帝陛下は、ルメイ大将に勲章を親授しなかったと伝えられています。

東京大空襲の犠牲者のご冥福をお祈りします。
合掌

2016年3月8日火曜日

インパール作戦発動さる

昭和十九年三月八日、南方軍麾下の緬甸方面軍がインパール作戦を発動しました。
同作戦は、第一五軍司令官牟田口廉也陸軍中将の指揮の下、歩兵第一五師団、同三一師団、同三三師団、第五飛行師団が参加しました。

参加総兵力は約92,000、戦死26,000、戦病死36,000という悲惨な敗戦でした。撤退した日本陸軍兵士の遺体によって、白骨街道とまで呼ばれるほどになったと言われています。

この悲惨な敗戦の責任を負うべきは、緬甸方面軍司令官の河辺正中将と第一五軍司令官牟田口中将を挙げなければなりません。

もともと、大本営陸軍部や南方軍の方針は、緬甸方面は積極的な防御はしても、遠くインパールまで進軍することは想定外だったとされています。それを、牟田口中将が強引に作戦立案を行い、川辺中将が確実な見込みがないのに認めてしまうことが、多くの死者を出した原因です。

この作戦には反対意見も多く、反対した第一五軍参謀長や南方軍の総参謀副長も更迭するという強引極まりないものでした。

この悲惨な作戦で戦死、戦病死した多くの英霊が戦場に眠ったままでです。幸いにして、緬甸と我が国は、比較的に友好関係にあります。この関係を活用して、少しでも多くの英霊が帰還できるように願った止みません。

2016年2月26日金曜日

226事件から80年です。

昭和十一年(1936年)は、皇道派の青年将校に率いられた下士官兵1,483名が尊皇討奸の名のもとに決起した日です。

青年将校は、近衛歩兵第第三聯隊、歩兵第一聯隊、歩兵第第三聯隊、野戦重砲兵第七聯隊などの下士官兵に非常呼集を掛けた上で実弾を配布、岡田啓介首相(予備役海軍大将)、斎藤実内大臣(予備役海軍大将)、鈴木貫太郎侍従長(予備役海軍大将)、教育総監渡辺錠太郎陸軍大将、高橋是清大蔵大臣、警視庁などを襲撃。

岡田、斉藤、鈴木の三大将を的にされた海軍の行動は素早く、宿毛湾で演習中の聯合艦隊は直ちに演習中止、第一艦隊は東京湾に急行、戦艦長門の主砲を国会議事堂に標準、第二艦隊は大阪湾に投錨し、決起部隊に呼応しないように陸軍を牽制、横須賀鎮守府の井上成美参謀長は特別陸戦隊を東京港に急派。帝國の主柱たる、海陸軍が相撃つの可能性がありました。

政府は、首相臨時代理後藤文夫内務大臣主催のもと、海軍と警視庁の反対を押し切って帝都に戒厳令を布告すること決定、東京警備司令官香椎浩平中将を戒厳司令官に任命。
戦後に公開された記録や、関係者の日記、昭和天皇実録などから、国軍の首長であり大元帥たる昭和天皇陛下は、終始決起将校の断固鎮圧を望んでいたことが明らかになっています。

軍首脳を悩ませたのは、決起将校はともかく、上官の命令として叛乱に参加した下士官兵でありました。彼らは、上官の命令に素直に従っただけであり、討伐部隊の銃口の前に晒された事自体、不本意であったでしょう。

帝都東京は、正に未曾有の危機に見舞われたと言ってよく、陸軍首脳部の煮え切らない態度に痺れを切らした大元帥陛下の叱咤に、とうとう戒厳司令官が討伐の奉勅命令の実行を決断、関東各地から集められた鎮圧部隊の圧力もあり、決起将校も部隊の原隊復帰を決断しました。

筆者は、決起将校の國を憂う気持ちを良しとしますが、国軍を正式の命令なしに私に動かしたこに関しては非難します。
昨年の安全保障法制反対論者の中かに、この事件のことを持ち出す人士は少なくありませんでした。確かに、この事件は軍紀の面から見て、甚だ面白くないものです。しかし現在の自衛隊は、完全に政府の統制のものにあり、間違っても反乱を起こす可能性は限りなく零に近いものです。

この事件は未だに謎が多く、当時の皇道派の高級将校が影でどのように立ち回っていたかなど、今後も解明が望まれることが少なくありません。

226事件から80年、改めて日本近代史の大事であったこの出来事を振り返ってみることが重要です。

2015年12月8日火曜日

帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり - 外交から考える

74年前の12月8日未明、帝國海軍の海上戦力の主力、第一航空艦隊が開戦劈頭、米合衆国太平洋艦隊主力を布哇真珠湾において奇襲攻撃、戦艦部隊に大打撃を与えました。



海軍の聯合艦隊だけでなく、陸軍の南方軍も東南亜細亜方面への作戦計画を発動、米英両国との戦闘状態になった日です。

大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり

最近、SEALDsなる礼儀を弁えない無法の輩が脚光を浴びています。そして、その無法の輩に媚を振る情けない民主、日共などの野党。
もう一年の終わりも間近ですが、大東亜戦争 とは何だったのか、今少し真剣に総括すべきと思います。
しかし、現実認識に著しく欠けた野党があれじゃ、期待薄です。特に、岡田代表、枝野幹事長、辻元清美、R4辺りが、相も変わらず民主党を牛耳っているので、一強多弱は体制はしばらく変わらないでしょうね。

時の大日本帝國が、何故あのような無謀といえる多国間戦争に突入したか。それに関しては、数々の議論がり、その要因を一つに言い切ることが不可能でしょう。しかし、一つの、そして重要な要因に外交的孤立があるでしょう。

1902年の日英同盟は、その後の日本の国際関係の基軸でした。日英同盟を背景にして、日露戦争を戦い、辛うじての勝利を勝ち取りました。そして、1923年の同盟失効を期にして、外交的経済的に孤立していきます。

現在は、日米同盟を基軸として国家の安全保障を保っています。日本の近代史を省みるに、外交的経済的な孤立は断じて避けなければなりません。

その際、外交の基軸となり友好国は支那でしょうか。露西亜でしょうか。南北朝鮮でしょうか。これら国家は、地政学に言って大陸国家です。日本は、これらの国家と違って海洋国家です。我が国は、日英同盟、日米同盟のように海洋国家として、歩んで行くべきです。
その意味で、国力が落ちてきた米国を補完する限定的集団自衛権とTPPは、外交的経済的に必要な政策転換だと確信します。




2015年11月25日水曜日

憂国記 - 三島由紀夫没後45年

本日は憂国忌、作家で憂国の士、三島由紀夫が「楯の会」の同志と自衛隊の決起を促すために、陸上自衛隊東部方面総監室に立て篭もり、志が叶わないとみると学生長の森田必勝と共に割腹自殺を図った事件から45年です。

この事件は、TVニュースや新聞、週刊誌で大きく取り上げられ、子供心にも記憶している衝撃的な事件でした。

作家としてノーベル文学賞候補とも目された才能豊かな作家が、何故にこのような時代錯誤とも思える事件を引き起こしたのか。それを理解するためには、当時の時代状況、近代史、戦後史を理解する必要があると思います。

三島は、決起の理由として憲法改正を挙げています。当時の政治情勢は、現在では信じられないほど、左翼全盛でした。当時は、ソ連などの東側諸国、支那や北朝鮮などの共産主義陣営を批判することは禁忌でした。
警察も批判の対象であり、造反有理は毛沢東の専売特許ではなく、日本国内でも左翼陣営が無理難題を押し通す格好の脅し文句、「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と嘆いた白河院の気持ちは、当時の為政者も同様であったでしょう。

そうした時期の自衛隊は、その存在価値は全く否定的なもので、災害派遣や国際貢献での献身的な活躍で、国民の半数以上が自衛隊の存在を認知している現在では、全く信じがたい状況でありました。

三島は、明確な自衛隊は武装組織、国防組織であり、栄誉有る存在であるべき陸海空自衛隊員達が、日陰者として左翼陣営の非難の対象になっていることに、憤りと矛盾を感じていたと言われており、筆者も同感です。

三島の感じた矛盾は、突き詰めると憲法の存在、あり方に通じてきます。国家の在り方、皇室、伝統、文化、美意識など様々な問題意識が、三島にあったのだと思います。

折しも、今年は安全保障法制の問題で、国民の政治意識が高まったと言われています。しかし、SEALDsと呼ばれる集団の粗雑で幼稚な問題認識、近代史に関する無知、福島瑞穂ようなレッテル貼りに熱を上げ、本質的な議論をしない国会議員達の見識の無さ、ノスタルジーに浸った全共闘世代の妄想、ファッション感覚で安全保障を語る芸能人。これで、本当に政治意識が高まったのでしょうか。

日本共産党は、安倍政権打倒のため、一時的に自衛隊を容認するといして、国民連合政権構想を発表しました。これ、国民をバカにしきった構想ですね。安倍政権を打倒した後は、直ちに選挙を行い、新たな政権を樹立するのだそうです。

ようやく安全保障法制が成立しました。しかし、日本の安全を保障するためには、三島が主張したように憲法改正が必要と思います。三島の決起から45周年。三島の願望が果たされる日が、一刻の早く訪れることを望んでいます。

三島由紀夫没後45年(上)】 決起した元会員、貫く沈黙 肩の刀傷…今も悔いなく

【三島由紀夫没後45年(中)】 狙撃覚悟「建軍の本義」問う 元会員「森田さんがもちかけた」 文学ではなく行動に託す

三島由紀夫没後45年(下)】 三島に斬られ瀕死の元自衛官「潮吹くように血が噴き出した」

【三島由紀夫事件】 三島由紀夫の遺書全文 「夢は、楯の会全員が一丸となつて、義のために起ち、会の思想を実現すること」

【三島由紀夫事件】 三島由紀夫の命令書 「皇国日本の再建に邁進せよ」

【三島由紀夫事件】 三島由紀夫の檄文 「敢てこの挙に出たのは自衛隊を愛するが故」

【三島由紀夫事件】 三島由紀夫と行動を共にした楯の会会員の証言集(裁判での発言や上申書)





















2015年11月17日火曜日

世界の皆さん 神風は、テロ行為ではありません。

パリで発生した憎むべきテロ事件が発生しました。今回のような卑劣なテロ事件が発生すると、このような論調が必ず出てくると危惧していましたが、予想の通りです。

まず第一に申し上げたいのは、大東亜戦争、太平洋戦争の体当たり攻撃で散華した帝國陸海軍将兵は、間違ってもテロリストでないと言うことです。

国際法で、自衛を除く戦争が犯罪行為になったのは戦後のことです(国際連合憲章第二条)。それまでは、戦争行為そのものは、戦時国際法たるハーグ条約や国際的な慣例法においても違法ありませんでした。

日本陸海軍の体当たり攻撃は、軍事目標に対して実施されたものであり、民間人を対象にしたテロ行為ではありません。
(小生は、体当たり攻撃そのものは、大西瀧治郎海軍中将の言にあるように統率の外道だと思います。しかし、体当たり攻撃で散華しした英霊には、感謝の念を捧げます)

国外ばかりでなく日本国内においても、英霊の御霊に唾する言論をなす輩がいるようです。重ねて強調します。日本陸海軍将兵の体当たり攻撃は、合法的な行為(当時の国際法上は)であり、決してテロ行為ではありません。

世界の皆さん。過激派のテロ行為と、靖國神社の英霊を同じではありません。誤解なさらないようにお願い申し上げます。

自爆テロ犯は「カミカズ」仏報道で「神風特攻隊」を誤解?

特攻隊は「テロリストとは違う」「戦友への侮辱だ」 仏報道に88歳元隊員憤り

2015年9月8日火曜日

「サンフランシスコ講和条約」と「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧)」について(1)

本日は、「日本国との平和条約」所謂サンフランシスコ条約と「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)が締結された日です。

現在、国論を二分していると思われる安全保障法制は、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約(旧)と(新)との関係、その間の国際情勢を考察しながら検討する必要あがると考え、拙文を起草致しました。

両条約の前年であり1950年には、朝鮮戦争が勃発しています。また、警察予備隊も発足、日本の再軍備路線が明確になりました。
サンフランシスコ条約の締結にあたっては、日本国内においては、朝野を巻き込んだ大論争が巻き起こりました。米国が主導する西側諸国との講和を目指した単独講和派と、ソ連を盟主とした東側諸国おも講和の対象にした全面講和派との対決でした。

全面講和論は、南原繁東大総長を代表とする学者が中心となり、日本は厳正中立を保ち、国外から全ての外国軍隊を撤収すべきという立場でした。それに、左翼陣営が賛同、後の非武装中立路線にも繋がっていきます。

単独講和論は、米国を中心とした西側諸国との講和を優先し、日本が完全に資本主義陣営に参加することを目的としていました。

単独講和は、米国との同盟関係を基軸として安全保障重視路線、全面講和は非武装中立に繋がる平和路線と言えるでしょう。これは、現在の安全保障法制論争に相通ずるところがあります。

両派の論争は、後に進歩的文化人(今は死語なりました)と呼ばれる左派言論人と、現実論に立脚した保守派言論人との言論闘争でもありました。

時の総理大臣の吉田茂は、東大総長南原繁に対して「曲学阿世の徒」と厳しく非難、南原も吉田に対して学者に対する権力的弾圧と指弾しました。
後の総理大臣である佐藤栄作自由党幹事長は、「政治的観点から現実的な問題として講和問題を取りとりあげている」と、学者達を非難しています。
南原は、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張しました。当時も単独講和論が優勢であった訳ではありません。もしかしたら、逆であった可能性もあります。
これは現在の安全保障法制で、反対派が使うレッテルと瓜二つです。つまり、安全保障法制反対派こそが、全国民の欲するところという訳です。

自分は、南原東大総長の言う全問講和に固執していたら、日本の独立は遅れていたと思います。それは、当時の東西冷戦の進展した状況において、米国が自陣営からの日本の離脱を認めるとは思えません。全面講和とは、中立とは言いながら、当時の左翼系言論人の本音は、ソ連に融和的であったからです。

当時の現実論と理想論との言論対立は、現在も同様であろうと思います。共産支那は、話し合いで何でも解決できる相手と見るか、その軍備拡張に危機意識を持つか。

自分は、危機感と持つ立場から安全保障法制に賛成しています。今回の安全保障法制では、戦後の近代史からの観点からの考察も必要と思いますが、反対派の論拠は、情緒論に終始して、現実論に立脚した思考が欠けているのは、全面講和論と相通ずるところがあるとしたのは、以上の理由からです。

本稿は、以降も続きます。

2015年5月3日日曜日

憲法記念日らしいですね。

今日は、憲法記念日と呼ぶらしいですね。しかし、自分にとっては単なる休日です。
自分のとっての憲法記念日とは、憲法の改正が実現した日です。護憲派の、お花畑的な空理空論に関しては、全くもって聞く耳を持ちません。

護憲派は、自分達のみが憲法を理解していると考えているらしいです。彼ら彼女らは、憲法を読みましょうと言います。しかし、それは改正は許さない、改正を考えること自体が間違っているという前提のようです。そして、改正派は憲法を読んだ事がないに違いないと。実際に、そう言った護憲派を知ってます。そう日本共産党員です。
街頭演説していた日共党員に、憲法改正と言ったら、怒ってましたね。そして、馬鹿と言われました。

自分も、憲法を何回も読みましたよ。改正派であっても、憲法を何回も読んでます。その上での、憲法改正と考えているのです。

自分は、大江健三郎、関口宏、吉永小百合、山田太郎、福島瑞穂、辻元清美などの護憲派は、憲法を改正を考えること自体を許さないという、言論の自由を許さないという全体主義者と思ってます。日共は、一党独裁を目指していると思いますよ。

自分は、憲法改正が実現した時に、初めて憲法記念日を祝します。

2014年5月18日日曜日

河野洋平に物申す - この無責任なる元官房長官

サンデーモーニングで、河野洋平氏の無責任なる言辞に呆れました。
河野洋平氏は、無責任極まりない集団的自衛権を否定する前に、河野談話について明確に説明すべきだろう。
この談話に事務方の責任者だった石原元官房副長官は、その欺瞞性を国会で証言した。
河野氏は、河野談話は間違っていないと言うなら、自信をもって説明できるのだろう。それが、談話に関しては黙りを決め込む。氏は、はっきり言って、卑怯者である。

しかし、サンデーモーニング、益々酷くなるね。出演者も札付きのリベラル、親中派ばかり。尖閣諸島中国漁船衝突事件の時、田中優子氏は海上保安庁の対応に問題があったのではと言い放った。ようは、中国漁船は無罪だという。

毎日新聞、TBS、関口宏の偏向的体質なんだろうな。

2014年5月5日月曜日

米国の韓国系団体の新たな反日攻勢

米国の韓国系団体が、新たな反日攻勢を開始しました。
断固阻止に向けて、日本政府、外務省関係部局、在米大使館、官邸の奮起を望みます。民間有志を本件に関心を持ち、政府を応援する必要があると思われます。

以下は、産経新聞からの引用です。憤りを感じる記事です。

ワシントン首都圏に「慰安婦」碑設置計画、ミシガン州では像 韓国系団体、極度に警戒

ワシントン首都圏に「慰安婦」碑設置計画、ミシガン州では像 韓国系団体、極度に警戒
2014.5.5

米国で韓国系団体などが、新たにワシントン首都圏に「慰安婦」碑を、ミシガン州に「慰安婦」像を設置する計画であることが3日、関係者の話で明らかになった。日韓両政府は、米国の仲介により関係改善を模索しているが、米国を舞台にした韓国側の攻勢が抑制される気配はまったくない。

ワシントン首都圏の設置場所としては、バージニア州北部フェアファクス郡が有力視されている。関係者は、資金調達などの準備が整い、碑の石材も購入済みで、「起工式は5月にも行われる」と話している。

バージニア州議会では3月、公立学校の教科書に、「日本海」に加え「東海」を併記することを義務づける「東海」併記法が成立した。これを受け関係者は、「次は慰安婦碑を建立する」と明らかにしていた。

コロンビア特別区に設置する構想もある。仮に、政治の中心地である首都に設置されれば、慰安婦をめぐる韓国側の歴史認識と、人権侵害との主張を具現化する政治的な象徴として、他の都市に設置される以上に大きな意味をもつ。

それだけに、米政府の日韓関係に対する配慮も働けば、当局から許可を得ることは容易ではなく、在米韓国大使館の敷地内にでも設置しない限り難しい、という観測もある。

韓国系団体などはこうした計画を、日本側の妨害を極度に警戒し、水面下で進めている。

一方、ミシガン州では、デトロイト郊外サウスフィールドにある「ミシガン韓人文化会館」の前に、慰安婦像が設置され、8月に除幕式が行われる予定だ。

慰安婦像は、カリフォルニア州グレンデール市や、韓国ソウルの日本大使館前などの像を制作した彫刻家の手によるものだという。

米国では慰安婦像はグレンデールに1体、慰安婦碑はニュージャージー州のハッケンサックとパリセイズパーク、ニューヨーク州ウエストバリーに計4基が設置されている。“設置ラッシュ"をいかに阻止するか、日本の対応が改めて問われている。


2014年5月3日土曜日

憲法記念日と憲法改正と集団的自衛権

日の丸2
今日は憲法記念日です。各地で、護憲派と改憲派の集会が催されて、活発に議論されていることと思います。

私が中学校、高校を過ごしたので1970年代でした。その時代は、今から考えれが信じ難いこととに、憲法について考えること自体が憚れる雰囲気がありますた。
どういう事かと言うと、社会党や共産党などの左翼の勢いが強く、護憲でなければ口汚く罵られ、発言の自由を半ば封じられていたからです。
ソ連や中国、社会党、共産党などの左翼思想が絶対善で、保守思想は絶対悪、アメリカ合衆国や自民党は悪魔とも呼べる存在でした。

そうした時代ですから、憲法を考えましょうと言われても、それは護憲思想を無条件に受け入れる、そう言うことでしかありませんでした。
最近になり、ようやく憲法を考えることが可能な時代なったと感慨深いものがあります。それは、社会党(現社会民主党)や共産党、左翼思想の凋落と機を同じくするものがあります。

さて、憲法ですが、護憲と改憲、様々な考えがあります。そうして、自由に議論することこそ健全であると、自分は思います。以前のように、議論自体封殺することは、絶対あってはりません。

現在、憲法に関しては改憲ということが議論されることがあります。自分の立場を明確にすると、改憲派です。よく護憲派のお歴々は、改憲派は憲法を読んでないに違いにない、自分たちは憲法を読んでいる、そうすると護憲派ならないはずがない、というような論法なったりしますね。例えば、社民党の福島氏とか共産党の小池氏などです。そこには、改憲派は憲法も知らない、なんてお馬鹿な人達なんだろうという侮蔑感が満ち満ちていますね。

自分は、これでも憲法は何度となく読みました。そして、自分が出した結論は、改憲が必要であるということです。幾つもの理由がありますが、安全保障と国会が最も重要と考えています。

特に安全保障ですが、我が国が安全にあるためには、集団的自衛権を含む自衛権を憲法に定めておくことが必要と思うからです。
国の安全のため、必要な事項と限界を明記し、自衛権の行使を国家の安全とと国際社会への貢献に絞っておく規定があるべきではかいか、それが自分の考えです。

米国の力の衰えがはっきりしています。それに比例して、中国共産党の軍事力への傾注と強化は由々しき状況にまでなっています。
憲法で米軍を国内から撤退させたフィリッピンがどうなったか。中国共産党の強引な方法ににより、南沙諸島を失うことになりました。中共は、ベトナムとも領土紛争を抱えています。
東アジアは、強引な中共の脅威に晒されていると言っても過言でないでしょう。
中共の軍事的脅威に対抗していくためには、米軍のアジアでのプレゼンスとともに、多国間での防衛協力が欠かせないのではないか。
そうなると、いずれは多国間の安全保障機構に参加することが必要になると言うのが、自分の考えです。


しかし、実際にところ改憲は、ほぼ不可能ではないかと考えています。日本国憲法の改憲規定は、本当に敷居が高いですね。ハードルが高過ぎる。
ではどうすればいいのか。手をこまねいていて良いのか。ダメですね。ならば、憲法の解釈を変えるしかないじゃないか。

blogos
前衆議院議員 緒方林太郎氏
「訓詁学はもう止めよう」

自分は、緒方氏の意見にほぼ同意します。

自分は、大学で社会学を専攻していました。大学の先生方の一部に、観念論や理想論に凝り固まったしか思えない講義があり、辟易したことがあります。
現在の護憲派も同じですね。社民党や共産党、大江健三郎氏、福島瑞穂氏、辻元清美氏、弁護士の狩野氏などの護憲論を聞いていると、この人達は中共や北朝鮮、ロシアをあそこまで、よく信用できるなと思います。ある意味、感心しています。

自分は、骨の髄まで改憲派、集団的自衛権容認派です。高校生時代、憲法改正が必要を言ったら、同級生から右翼反動軍国主義者と言われました。その同級生は、愚かなる者が馬鹿なことを言っていると考えたのでしょうね。
その場で言い返しました。そうだよと。
昔は、安全保障を語ると左翼のお歴々から、右翼反動軍国主義者とレッテルを貼られるの日常茶飯事なので慣れてしまい、今も変わりません。

このblog、そんなに大した読者がいる訳でもないのですが、この右翼反動軍国主義者をお考え方も居られるでしょうね。お答えします。その通りなので、全く気にしてません。

憲法記念日の佳き日に、憲法改正、集団的自衛権が必要と主張させて頂きました。

2013年11月13日水曜日

フィリピンの災害とレイテの戦い

フィリピンレイテ島に台風30合が直撃、大変な被害がでていると報道されています。政府も自衛隊員を含む、緊急救援隊の派遣を決定しました。派遣される皆さんには、頑張って頂きたいと思います。

ところで、この台風のニュースを聞いたとき、ある感慨に襲われました。太平洋戦争時、レイテ島との海や地上で、日本陸海軍と米陸海軍との間にが死闘を繰り広げられ、多数の戦病死者を出しました。
1944年10月20日、南西太平洋戦域連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー大将麾下の第6軍がレイテ島東部に上陸、日本側は第14方面軍司令官山下奉文大将麾下の第35軍第16師団が迎え撃ちました。
今回のニュースで度々名前が上がっているレイテ島のタクロバンは、その南あるダガミと共に、米陸軍が上陸した激戦地でした。

日本軍は84,000名もの陸海軍将兵を投入しながら、生還したものは79,260という、生還した者4,740名という、ほぼ全滅状態、しかも大半が餓死したという凄惨な戦いでした。もちろん、日米の戦いで現地の住民も多数の死者と損害を出したことが言うまでもありません。

そのレイテ島に日本から、自衛隊を含む救助部隊が駆け付けることに、現地住民はどのように対応されるのか、少しばかり気がかりです。

しかし、各国も物資の提供、救助部隊や艦艇、航空機の派遣など積極的に活動してします。国際貢献のためにも、政府諸機関の活躍を願って止みません。

注1
私は、この大規模な災害に対して、救援を躊躇ってはならないと思います。また、自衛隊合憲論者であり、海外での活躍に称賛を禁じ得ません。ただ、レイテの戦いという事実があるので、現地の皆さんの気持ちがどうなのか、という点について気になるのです。誤解があるといけないので

注2
本文に重大な間違いがありました。訂正します。
誤 生還したものは79,260という
正 生還した者4,740名という
 

生還者の少なさを強調したかったのですが、数字を逆にしてしまいました。重大な誤記で、訂正させて頂きます。


2012年11月28日水曜日

所沢航空発祥公園に、世界で唯一飛行可能な零戦が到来しました

久し振りの投稿です。で、今日のお題ですが、わが町の話題です。
わが所沢には、航空発祥記念公園にと呼ばれる施設があります。この公園は、大日本帝国陸軍が日本で最初に設置した軍用飛行場でした。戦後は、米軍に接収され米陸軍、空軍の有人施設として使用されていました。
現在は、施設の一部が返還され無人の米空軍基地となっています。市民からは、通称「通信基地」と呼ばれます。

私の母校は、返還された通信基地の跡地に建設され、埼玉県立所沢北高と言います。その他に、基地跡地に建設された施設として、防衛医科大学校、防衛医科大学校附属病院、私が入院生活を送り、今も通院している国立障害者リビリテーションセンターなどがあります。

陸軍所沢飛行場
所沢通信基地

その所沢航空発祥記念公園(航空公園)に、期間限定で零式艦上戦闘機五二型が展示されることにことになりました。

所沢航空発祥記念公園
「日本の航空技術の100年と今後」

この零戦五二型は、サイパンで米軍に捕獲された本物で、しかも発動機も栄二一型搭載です。産経新聞の報道よりますと、老朽化もあり今後が飛行の機会が無くなる可能性もあるとのことです。

私の亡父は、旧制東京都立航空専門学校発動機科卒業でした。父からは、零戦の話は良く聞かされて育ったのです。その関係もあり、今回の零戦の期間限定の展示には、もの凄く興味があります、。航空公園は、自転車で行ける範囲なので、何度も通ってみる積もりです。

零戦組立見学会