昭和十九年三月八日、南方軍麾下の緬甸方面軍がインパール作戦を発動しました。
同作戦は、第一五軍司令官牟田口廉也陸軍中将の指揮の下、歩兵第一五師団、同三一師団、同三三師団、第五飛行師団が参加しました。
参加総兵力は約92,000、戦死26,000、戦病死36,000という悲惨な敗戦でした。撤退した日本陸軍兵士の遺体によって、白骨街道とまで呼ばれるほどになったと言われています。
この悲惨な敗戦の責任を負うべきは、緬甸方面軍司令官の河辺正中将と第一五軍司令官牟田口中将を挙げなければなりません。
もともと、大本営陸軍部や南方軍の方針は、緬甸方面は積極的な防御はしても、遠くインパールまで進軍することは想定外だったとされています。それを、牟田口中将が強引に作戦立案を行い、川辺中将が確実な見込みがないのに認めてしまうことが、多くの死者を出した原因です。
この作戦には反対意見も多く、反対した第一五軍参謀長や南方軍の総参謀副長も更迭するという強引極まりないものでした。
この悲惨な作戦で戦死、戦病死した多くの英霊が戦場に眠ったままでです。幸いにして、緬甸と我が国は、比較的に友好関係にあります。この関係を活用して、少しでも多くの英霊が帰還できるように願った止みません。
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