昭和十一年(1936年)は、皇道派の青年将校に率いられた下士官兵1,483名が尊皇討奸の名のもとに決起した日です。
青年将校は、近衛歩兵第第三聯隊、歩兵第一聯隊、歩兵第第三聯隊、野戦重砲兵第七聯隊などの下士官兵に非常呼集を掛けた上で実弾を配布、岡田啓介首相(予備役海軍大将)、斎藤実内大臣(予備役海軍大将)、鈴木貫太郎侍従長(予備役海軍大将)、教育総監渡辺錠太郎陸軍大将、高橋是清大蔵大臣、警視庁などを襲撃。
岡田、斉藤、鈴木の三大将を的にされた海軍の行動は素早く、宿毛湾で演習中の聯合艦隊は直ちに演習中止、第一艦隊は東京湾に急行、戦艦長門の主砲を国会議事堂に標準、第二艦隊は大阪湾に投錨し、決起部隊に呼応しないように陸軍を牽制、横須賀鎮守府の井上成美参謀長は特別陸戦隊を東京港に急派。帝國の主柱たる、海陸軍が相撃つの可能性がありました。
政府は、首相臨時代理後藤文夫内務大臣主催のもと、海軍と警視庁の反対を押し切って帝都に戒厳令を布告すること決定、東京警備司令官香椎浩平中将を戒厳司令官に任命。
戦後に公開された記録や、関係者の日記、昭和天皇実録などから、国軍の首長であり大元帥たる昭和天皇陛下は、終始決起将校の断固鎮圧を望んでいたことが明らかになっています。
軍首脳を悩ませたのは、決起将校はともかく、上官の命令として叛乱に参加した下士官兵でありました。彼らは、上官の命令に素直に従っただけであり、討伐部隊の銃口の前に晒された事自体、不本意であったでしょう。
帝都東京は、正に未曾有の危機に見舞われたと言ってよく、陸軍首脳部の煮え切らない態度に痺れを切らした大元帥陛下の叱咤に、とうとう戒厳司令官が討伐の奉勅命令の実行を決断、関東各地から集められた鎮圧部隊の圧力もあり、決起将校も部隊の原隊復帰を決断しました。
筆者は、決起将校の國を憂う気持ちを良しとしますが、国軍を正式の命令なしに私に動かしたこに関しては非難します。
昨年の安全保障法制反対論者の中かに、この事件のことを持ち出す人士は少なくありませんでした。確かに、この事件は軍紀の面から見て、甚だ面白くないものです。しかし現在の自衛隊は、完全に政府の統制のものにあり、間違っても反乱を起こす可能性は限りなく零に近いものです。
この事件は未だに謎が多く、当時の皇道派の高級将校が影でどのように立ち回っていたかなど、今後も解明が望まれることが少なくありません。
226事件から80年、改めて日本近代史の大事であったこの出来事を振り返ってみることが重要です。
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