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2018年2月17日土曜日

『突然の訃報に接して』

2月13日早朝、大学時代の友人からメールが届いた。学生時代に、お世話になった恩師、T先生が逝去されたとのこと。突然の訃報を読み、言葉がなかった。
学生時代の友人や後輩と旧交を温めたのが2月11日。それから、3日も経過せずに接した訃報。ただただ、ひたすらに悲しい。
先生は、公私ともご指導を頂いた恩師であり、人生の導き手であった。突然の訃報に、30年以上に渡る交友が思い出される。

実際のところ、先生と直接に教えを受けたことはない。先生は教育学科で、主に教員を目指す学生を指導された。自分は社会学科の学生、通常はお会いする機会はない。先生の慧眼に触れた端緒は、大学一年生の時に所属する体育会ワンダーフォーゲル部から、体育会本部に派遣されたこと。
先生は、教育学科で教鞭を執られる傍ら、学生課長として学生の自治組織への対応を担当されており、自分は体育会本部員、その後は幹部としてご指導を受けた。

学生時代は、学生の本分に悖る生活、行動ばかりであった(父上様母上様、申し訳ない)。大学の敷地内にブルーシート敷き詰めて、怪訝な顔をする女子学生を傍目に見ながら花見もした。大学祭では、一升瓶片手にどんちゃん騒ぎ。部室の前で、通りがかりの学生を捕まえて無理やり酒を注ぐ。
先生、誠に不真面目な学生集団で申し訳ありませんでした。斯様なわけで、自分達が先生の教えを受けたのは教室ではなく、府中駅前の居酒屋や屋外であったのかもしれない。いや間違いない。

卒業式の日、我々は八王子の日本料理屋に集合した。先生の行き付けのお店で、卒業を祝って下さるとのこと。人数は後輩や先輩も含めて20人以上であったと記憶している。
飲めや食べろと大騒ぎ、勘定のことなど頭になく、お店にあったビールと日本酒を飲み干し、ウイスキーも常連さんがキープしたボトル以外はなくなったところで、漸くにお開き。会費を計算するために女将さんに確認すると、精算済みとのこと。金額は、30万円近く。まずかった。

翌年、同じお店で後輩たちの卒業祝い。ただ、昨年の反省から先輩方と相談して、OBが幾許かの金額を集めることになった。女将さんに事情を話し、先生に分からないように勘定に含めておくようにお願い。しかし、数日後に先生から自宅に電話が。全部ばれていた。叱責された。結局、後日同じ店に行き、先生のご馳走になることに。これも、忘れ難い思い出。

学生時代のみならず、卒業後も何かとご指導、励ましを受けた。自分は、とある事情で卒業式の時点でも就職が決まっておらず、(現在はともかく、当時の就職状況ではあり得ないことだった)。そうした苦境の中で、自分を励まし支援していただいたことは、今でも感謝している。

就職後も、折に触れて先生とお会いする機会があった。同期生が集まる際には、先生もお呼びして、思い出話に花を咲かせた。先生のご自宅にお邪魔したこともあり、奥様の手料理に舌鼓を打ち、グラスを傾けた。

自分の結婚式に先生を招待させていただいた。招待状を郵送するのではなく、ご自宅にお邪魔して直接、出席をお願いした。その際には、自分の結婚を喜び、たしか上寿司を注文して下さり、大変恐縮した記憶がある。ただ、先生にご挨拶をお願いしたのだが、それなら欠席すると押し切られ、上司に主賓の挨拶を頼んだ。先生は、堅苦しいことが苦手で挨拶ごとを避けられていた。駄目元で頼んだが、見事に返り討ちにあった。

2007年、先生が定年を迎えて退職されることになった。OB先輩の発案で、長年のご指導に感謝するため「T先生を囲む会」と名付けられた宴席が企画された。自分も幹事役の一人になり、前年から準備に追われた。自分は、OB代表が朗読する挨拶文を作成する大役を仰せつかり、悪戦苦闘の末、先輩の承諾を得た(その挨拶文、PCに保存してあるはず。探してみよう)。
当日は、OBや現役の学生を含め、数百人の出席者を数えることができ、準備に費やした時間も報われたと思う。これも先生のご人徳である。

2007年2月17日は、その宴から丸11年になる。しばらくは、先生の思い出を振り返る日々が続きそうである。

先生、ご冥福をお祈り申し上げます。そして、我々を天からお守り下さい。

2015年11月30日月曜日

水木しげる氏死去 - 頭部強打で入院中に 

漫画家の水木しげる氏が、心筋梗塞で死去されました。93歳だったそうです。

「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるさんが死去 93歳

スポーツニッポンの報道によると、水木氏は、11月11日に自宅で転倒、頭部を強打して入院したいたとのことです。
頭部を強打したことが、心筋梗塞の遠因になったのでしょうか。筆者は、脳出血の経験者で、頭部への強打は避けるように注意を受けているので、頭部へ強打と心筋梗塞の因果関係が気になります。

高齢者の怪我は命取り、ましてや頭部を強打したのは、その影響が皆無だったとは思えませんね。自分も決して若くないので、十分に気をつけます。
最近、通勤でも帽子を被るようにしたのですが、転倒など頭部への打撃の影響を最小限に抑るためです。


「ゲゲゲの鬼太郎」水木しげるさん死去 93歳

水木氏と言えば、「ゲゲゲの鬼太郎」を思い浮かべるのは、衆目の一致するところだと思います。
「ゲゲゲの鬼太郎」は、1968年制作の第1作からから2007年制作の第5作まで、5回のTVアニメシリーズが発表されました。
筆者が最も記憶に残っているのが、第1作の第32話「妖花」です。南方で戦争に散った両親が、妖花となって娘を守る、悲しくも感動的な物語でした。
筆者は、この第1作第32話は、水木氏がご自分の戦争体験を以って訴えたかった、何物かがあったのだとおもいます。
(水木氏は、従軍した南方戦線で隻腕になったことが、氏の人生に多大な影響を与えたことは想像に難くありません)

「ゲゲゲの鬼太郎」 DVDアニメ感想 第1期第32話「妖花」

「ゲゲゲの鬼太郎」は、当初は棘々しい(おどろおどろしい)ものでしたが、作を重ねるに従って、段々に恐怖感が薄れてきました。それは、筆者が年齢を重ねるに従い、「ゲゲゲの鬼太郎」を視なくなったことに関係しているような気がします。
鬼太郎は、制作を重ねることに、子供達の良き友人という側面が、段々に際立ってきました(第1作から、そのような側面はありましたが)。それも、社会が鬼太郎に、引いては水木氏に求めたのかもしれません。

水木氏のご冥福をお祈り申し上げます。
合掌


2015年11月26日木曜日

昭和の大女優、原節子さんが死去、号外が発行されました。

永遠の処女と言われた昭和の大女優、原節子さんが死去されていたことが分かり、一部の新聞で号外が発行されました。
筆者は、原さんが引退された後に生まれたので、残念ながら現役で活躍されていた時代を知りません。しかし、昭和の芸能史を考えると、日本映画の全盛時代に忽然として引退、その後も一切姿を表さなかったことが、まさに伝説となったと言えると思います。

原さんは、「永遠の処女」と言われました。あの美貌と清楚な雰囲気が、そう言わせたのでしょうね。今の若手にアイドル(怠惰な者達)には、全く似合わない表現ですねw

昭和遠くなりにけり、と昭和生まれの筆者は感慨に耽っております。

原節子さんのご冥福をお祈り、合掌

m(__)m



2015年8月6日木曜日

文化勲章受章者の阿川弘之氏が死去されました

訃報です。
文化勲章受章者の阿川弘之氏が、死去されました。

作家の阿川弘之氏が死去 文化勲章受章者、正論執筆メンバー

作品支えた海軍体験 中庸とユーモア愛し

評伝【阿川弘之さん死去】若者の被災地支援に「日本は大丈夫」

氏の代表作は、「山本五十六」、「米内光政」、「井上成美」の海軍三部作でしょう。
海軍関係では、その他に「軍艦長門の生涯」、「海軍こぼれ話」、「雲の墓標」、「暗い波濤」などを読みました。その他にエッセイが、「国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録」、「国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論」、「高松宮と海軍」、「山本元帥!阿川大尉が参りました」などなど。
ある思想傾向にある方々、例えば辻元清美氏、田嶋陽子氏、福島瑞穂氏などからは、右翼反動軍国主義者的作家ということになるのでしょうかね。ただ、阿川氏は相手にしなかったと思います。

氏を語る上で外せないのは、朝日新聞や毎日新聞などの偽善的な左翼マスコミが大嫌いであったこと。かつて、軍部に迎合したマスコミが、連合軍による占領下では踵を返したように反軍部に転向、その後はソ連や支那に媚を売っていたことが許せず、一貫して批判し続けていたこと。
昨年、朝日新聞の所謂「従軍慰安婦」問題で誤報を認めたことを、如何に考えていたか興味があるところです。

氏が師事した作家の伝記「志賀直哉」も、長編でしたが完読しました。しかし、何と言っても、最も面白かったのは月刊文藝春秋に連載された巻頭随筆の「葭の髄から」。

阿川氏の前の巻頭随筆が、司馬遼太郎氏が執筆された「この国のかたち」でしたが、文藝春秋の看板企画だけあって、甲乙つけ難いものがありました。ちなみ、阿川氏が海軍予備学生、司馬遼太郎氏が陸軍甲種幹部候補生出身でした。お二人の著書を読んでいると、海軍時代を懐かしむ阿川氏、批判的な司馬氏と対照的でした。

それは、海軍予備学生が任官同時に海軍上等兵曹の上、少尉候補生の下という破格の待遇を受けたからでしょうね。
陸軍は、士官教育方針として一等兵の苦労から味合わせるという方針を最後まで堅持しました。従って、兵隊の苦労をしたくないエリートは、挙って海軍の予備学生、予備生徒などに志願したそうです。

小生の伯父は、旧制中等学校を卒業すると、旧制高等商船学校に入校しました。当時の制度では、同時に海軍の兵籍に編入され、高等商船学校生徒兼海軍予備生徒になりました。
これが、どれだけの待遇かというと、街中で陸海軍の下士官は、二十歳前の海軍予備生徒である伯父を見かけた場合、先に敬礼を行い然る後に答礼を受けなければなりませんでした。それは、戦場経験豊かな古参兵でも同様で、海軍の身分差別が如何に激しかったかを物語るものでしょう。従って、海軍の予備学生、予備生徒出身者と陸軍出身者に意識の差があっても致し方ないと思います。

(太平洋戦争中でありましたら、卒業と同時に海軍予備士官として出陣すること予定さていました。
伯父は、そのことに関しては淡々と受け止めていたようで、任務だったのだと気負いをせずに話してくれたことがありました。)


阿川氏は、大江健三郎某氏と確執があったことは有名で、ご本人も隠していませんでした。大江健三郎某氏は、それを遠回しに匂わしていましたが、名言はしませんせした。小生は、それに偽善的な、何とも言えないあざとさを感じており、決して好感が持てません。
現在の大江某氏は、反原発、憲法九条の会などの活動に熱心ですが、その余りにも観念的に過ぎる思考にも、非合理性を感じるのみです。同じことは、美輪明宏某氏にも言えますが、自分からみれば、両氏とも偽善的にしか思えず、相容れないですね。

意外だったのは、『きかんしゃ やえもん』の文書が阿川氏の作品と知った時。児童文学書も、執筆されていたのですね。

94歳、大往生と言えますが、惜しい方が死去されました。残念でなりません。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌

2014年1月17日金曜日

小野田寛郎元陸軍少尉逝去す

悲しいニュースが流れました。

小野田寛郎さん死去、終戦知らずルバング島30年間任務続行 91歳 自然塾で育成に尽力
2014.1.17 09:38

戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。

遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。

大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。

50年にはブラジルへ移住し、牧場を開業。平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。


小野田寛郎元日本陸軍少尉が、ご逝去されていたことが明らかになりました。小野田元少尉は、歩兵六十一聯隊に入営、甲種幹部候補生に志願して合格、久留米第一陸軍予備士官学校に入校しました。
その後、陸軍中野学校二俣分校に入校しましたが、このことが小野田少尉の一生を左右する一大事となりました。

中野学校二俣分校は、本校が諜報・謀略・防諜戦などを教育されたのに対して、ゲリラ戦術(遊撃戦術)、破壊工作教育を受けて、敵後方の破壊活動などが主任務となりました。

中野学校二俣分校での教育後、見習士官を経て陸軍予備少尉に任官し、第十四方面軍に配属され、歩兵第八師団付を命じられています。

歩兵第八師団は、隷下の歩兵第八聯隊をレイテ島に派遣しましたが、ほぼ全滅しています。師団主力はルソン島南部に展開、米軍や現地ゲリラと死闘を繰り返し、やはり壊滅打撃を被っています。小野田少尉は、形式的には同師団の参謀部所属でした。

小野田少尉は、ルバング島に赴任、部下の下士官兵三名と共に八月一五日を過ぎた後も戦い続けることになります。

戦闘中、部下一名は投降し日本に帰還します。昭和二十九年、元伍長がフィリピン警察軍に射殺(戦死)され、同四十七年十月に元上等兵が戦死します。元上等兵は、正に最後の戦死者と言えます。

昭和四十九年(1974年)2月、運命の出会いが訪れます。日本の冒険家、鈴木紀夫氏と小野田少尉が奇跡の邂逅を果たします。小野田少尉は、熱意を以って帰国を促す鈴木氏の説得を受け入れ、もし命令解除が出されるのであれば投降することを了承します。

鈴木氏の連絡を受け、日本政府は救出チームを派遣、同年三月九日に上官である元陸軍少佐から第十四方面軍司令官山下奉文陸軍大将名の作戦命令書「尚武集団作戦命令」と口頭による命令により、任務解除を受け入れます。

小野田少尉は、その際に軍刀をフィリピン警察軍の将校に手渡します。これは、小野田少尉は救出されたという認識は全くなく、降伏と捉えていたからです。軍刀を敵側に手渡すのは、古来より洋の東西で確立していることで、小野田少尉も慣習に従ったものと推測されます。

小野田少尉は、両政治関係者とマニラに移動しますが、自分は処刑されるものと覚悟していたと云われています。それは、終戦後もフィリピン軍・米軍と戦闘行動を行い、また現地住民に対しても殺傷行為を行っていたからです。これは、当時のフィリピンのマルコス大統領の恩赦が与えられたことで、解決します。

処刑を覚悟した小野田少尉ですが、ぼろぼろの軍服姿だったにも関わらず、フィリピン軍の栄誉礼を以って、この勇者を称えたと言います。その後、背広姿で日本に帰国しますが、羽田空港に降り立った瞬間が、小野田寛郎’帝国陸軍少尉’が、’元少尉’になったと言えるのではないでしょうか。

小野田元少尉に不屈の精神に敬意を表し、謹んでお悔やみを申し上げます。
合掌

小野田寛郎少尉の動画