小野田寛郎さん死去、終戦知らずルバング島30年間任務続行 91歳 自然塾で育成に尽力
2014.1.17 09:38
戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。
遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。
大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。
50年にはブラジルへ移住し、牧場を開業。平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。
小野田寛郎元日本陸軍少尉が、ご逝去されていたことが明らかになりました。小野田元少尉は、歩兵六十一聯隊に入営、甲種幹部候補生に志願して合格、久留米第一陸軍予備士官学校に入校しました。
その後、陸軍中野学校二俣分校に入校しましたが、このことが小野田少尉の一生を左右する一大事となりました。
中野学校二俣分校は、本校が諜報・謀略・防諜戦などを教育されたのに対して、ゲリラ戦術(遊撃戦術)、破壊工作教育を受けて、敵後方の破壊活動などが主任務となりました。
中野学校二俣分校での教育後、見習士官を経て陸軍予備少尉に任官し、第十四方面軍に配属され、歩兵第八師団付を命じられています。
歩兵第八師団は、隷下の歩兵第八聯隊をレイテ島に派遣しましたが、ほぼ全滅しています。師団主力はルソン島南部に展開、米軍や現地ゲリラと死闘を繰り返し、やはり壊滅打撃を被っています。小野田少尉は、形式的には同師団の参謀部所属でした。
小野田少尉は、ルバング島に赴任、部下の下士官兵三名と共に八月一五日を過ぎた後も戦い続けることになります。
戦闘中、部下一名は投降し日本に帰還します。昭和二十九年、元伍長がフィリピン警察軍に射殺(戦死)され、同四十七年十月に元上等兵が戦死します。元上等兵は、正に最後の戦死者と言えます。
昭和四十九年(1974年)2月、運命の出会いが訪れます。日本の冒険家、鈴木紀夫氏と小野田少尉が奇跡の邂逅を果たします。小野田少尉は、熱意を以って帰国を促す鈴木氏の説得を受け入れ、もし命令解除が出されるのであれば投降することを了承します。
鈴木氏の連絡を受け、日本政府は救出チームを派遣、同年三月九日に上官である元陸軍少佐から第十四方面軍司令官山下奉文陸軍大将名の作戦命令書「尚武集団作戦命令」と口頭による命令により、任務解除を受け入れます。
小野田少尉は、その際に軍刀をフィリピン警察軍の将校に手渡します。これは、小野田少尉は救出されたという認識は全くなく、降伏と捉えていたからです。軍刀を敵側に手渡すのは、古来より洋の東西で確立していることで、小野田少尉も慣習に従ったものと推測されます。
小野田少尉は、両政治関係者とマニラに移動しますが、自分は処刑されるものと覚悟していたと云われています。それは、終戦後もフィリピン軍・米軍と戦闘行動を行い、また現地住民に対しても殺傷行為を行っていたからです。これは、当時のフィリピンのマルコス大統領の恩赦が与えられたことで、解決します。
処刑を覚悟した小野田少尉ですが、ぼろぼろの軍服姿だったにも関わらず、フィリピン軍の栄誉礼を以って、この勇者を称えたと言います。その後、背広姿で日本に帰国しますが、羽田空港に降り立った瞬間が、小野田寛郎’帝国陸軍少尉’が、’元少尉’になったと言えるのではないでしょうか。
小野田元少尉に不屈の精神に敬意を表し、謹んでお悔やみを申し上げます。
合掌
小野田寛郎少尉の動画
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