文化勲章受章者の阿川弘之氏が、死去されました。
作家の阿川弘之氏が死去 文化勲章受章者、正論執筆メンバー
作品支えた海軍体験 中庸とユーモア愛し
評伝【阿川弘之さん死去】若者の被災地支援に「日本は大丈夫」
氏の代表作は、「山本五十六」、「米内光政」、「井上成美」の海軍三部作でしょう。
海軍関係では、その他に「軍艦長門の生涯」、「海軍こぼれ話」、「雲の墓標」、「暗い波濤」などを読みました。その他にエッセイが、「国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録」、「国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論」、「高松宮と海軍」、「山本元帥!阿川大尉が参りました」などなど。
ある思想傾向にある方々、例えば辻元清美氏、田嶋陽子氏、福島瑞穂氏などからは、右翼反動軍国主義者的作家ということになるのでしょうかね。ただ、阿川氏は相手にしなかったと思います。
氏を語る上で外せないのは、朝日新聞や毎日新聞などの偽善的な左翼マスコミが大嫌いであったこと。かつて、軍部に迎合したマスコミが、連合軍による占領下では踵を返したように反軍部に転向、その後はソ連や支那に媚を売っていたことが許せず、一貫して批判し続けていたこと。
昨年、朝日新聞の所謂「従軍慰安婦」問題で誤報を認めたことを、如何に考えていたか興味があるところです。
氏が師事した作家の伝記「志賀直哉」も、長編でしたが完読しました。しかし、何と言っても、最も面白かったのは月刊文藝春秋に連載された巻頭随筆の「葭の髄から」。
阿川氏の前の巻頭随筆が、司馬遼太郎氏が執筆された「この国のかたち」でしたが、文藝春秋の看板企画だけあって、甲乙つけ難いものがありました。ちなみ、阿川氏が海軍予備学生、司馬遼太郎氏が陸軍甲種幹部候補生出身でした。お二人の著書を読んでいると、海軍時代を懐かしむ阿川氏、批判的な司馬氏と対照的でした。
それは、海軍予備学生が任官同時に海軍上等兵曹の上、少尉候補生の下という破格の待遇を受けたからでしょうね。
陸軍は、士官教育方針として一等兵の苦労から味合わせるという方針を最後まで堅持しました。従って、兵隊の苦労をしたくないエリートは、挙って海軍の予備学生、予備生徒などに志願したそうです。
小生の伯父は、旧制中等学校を卒業すると、旧制高等商船学校に入校しました。当時の制度では、同時に海軍の兵籍に編入され、高等商船学校生徒兼海軍予備生徒になりました。
これが、どれだけの待遇かというと、街中で陸海軍の下士官は、二十歳前の海軍予備生徒である伯父を見かけた場合、先に敬礼を行い然る後に答礼を受けなければなりませんでした。それは、戦場経験豊かな古参兵でも同様で、海軍の身分差別が如何に激しかったかを物語るものでしょう。従って、海軍の予備学生、予備生徒出身者と陸軍出身者に意識の差があっても致し方ないと思います。
(太平洋戦争中でありましたら、卒業と同時に海軍予備士官として出陣すること予定さていました。
伯父は、そのことに関しては淡々と受け止めていたようで、任務だったのだと気負いをせずに話してくれたことがありました。)
阿川氏は、大江健三郎某氏と確執があったことは有名で、ご本人も隠していませんでした。大江健三郎某氏は、それを遠回しに匂わしていましたが、名言はしませんせした。小生は、それに偽善的な、何とも言えないあざとさを感じており、決して好感が持てません。
現在の大江某氏は、反原発、憲法九条の会などの活動に熱心ですが、その余りにも観念的に過ぎる思考にも、非合理性を感じるのみです。同じことは、美輪明宏某氏にも言えますが、自分からみれば、両氏とも偽善的にしか思えず、相容れないですね。
意外だったのは、『きかんしゃ やえもん』の文書が阿川氏の作品と知った時。児童文学書も、執筆されていたのですね。
94歳、大往生と言えますが、惜しい方が死去されました。残念でなりません。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
評伝【阿川弘之さん死去】若者の被災地支援に「日本は大丈夫」
氏の代表作は、「山本五十六」、「米内光政」、「井上成美」の海軍三部作でしょう。
海軍関係では、その他に「軍艦長門の生涯」、「海軍こぼれ話」、「雲の墓標」、「暗い波濤」などを読みました。その他にエッセイが、「国を思うて何が悪い 一自由主義者の憤慨録」、「国を思えば腹が立つ 一自由人の日本論」、「高松宮と海軍」、「山本元帥!阿川大尉が参りました」などなど。
ある思想傾向にある方々、例えば辻元清美氏、田嶋陽子氏、福島瑞穂氏などからは、右翼反動軍国主義者的作家ということになるのでしょうかね。ただ、阿川氏は相手にしなかったと思います。
氏を語る上で外せないのは、朝日新聞や毎日新聞などの偽善的な左翼マスコミが大嫌いであったこと。かつて、軍部に迎合したマスコミが、連合軍による占領下では踵を返したように反軍部に転向、その後はソ連や支那に媚を売っていたことが許せず、一貫して批判し続けていたこと。
昨年、朝日新聞の所謂「従軍慰安婦」問題で誤報を認めたことを、如何に考えていたか興味があるところです。
氏が師事した作家の伝記「志賀直哉」も、長編でしたが完読しました。しかし、何と言っても、最も面白かったのは月刊文藝春秋に連載された巻頭随筆の「葭の髄から」。
阿川氏の前の巻頭随筆が、司馬遼太郎氏が執筆された「この国のかたち」でしたが、文藝春秋の看板企画だけあって、甲乙つけ難いものがありました。ちなみ、阿川氏が海軍予備学生、司馬遼太郎氏が陸軍甲種幹部候補生出身でした。お二人の著書を読んでいると、海軍時代を懐かしむ阿川氏、批判的な司馬氏と対照的でした。
それは、海軍予備学生が任官同時に海軍上等兵曹の上、少尉候補生の下という破格の待遇を受けたからでしょうね。
陸軍は、士官教育方針として一等兵の苦労から味合わせるという方針を最後まで堅持しました。従って、兵隊の苦労をしたくないエリートは、挙って海軍の予備学生、予備生徒などに志願したそうです。
小生の伯父は、旧制中等学校を卒業すると、旧制高等商船学校に入校しました。当時の制度では、同時に海軍の兵籍に編入され、高等商船学校生徒兼海軍予備生徒になりました。
これが、どれだけの待遇かというと、街中で陸海軍の下士官は、二十歳前の海軍予備生徒である伯父を見かけた場合、先に敬礼を行い然る後に答礼を受けなければなりませんでした。それは、戦場経験豊かな古参兵でも同様で、海軍の身分差別が如何に激しかったかを物語るものでしょう。従って、海軍の予備学生、予備生徒出身者と陸軍出身者に意識の差があっても致し方ないと思います。
(太平洋戦争中でありましたら、卒業と同時に海軍予備士官として出陣すること予定さていました。
伯父は、そのことに関しては淡々と受け止めていたようで、任務だったのだと気負いをせずに話してくれたことがありました。)
阿川氏は、大江健三郎某氏と確執があったことは有名で、ご本人も隠していませんでした。大江健三郎某氏は、それを遠回しに匂わしていましたが、名言はしませんせした。小生は、それに偽善的な、何とも言えないあざとさを感じており、決して好感が持てません。
現在の大江某氏は、反原発、憲法九条の会などの活動に熱心ですが、その余りにも観念的に過ぎる思考にも、非合理性を感じるのみです。同じことは、美輪明宏某氏にも言えますが、自分からみれば、両氏とも偽善的にしか思えず、相容れないですね。
意外だったのは、『きかんしゃ やえもん』の文書が阿川氏の作品と知った時。児童文学書も、執筆されていたのですね。
94歳、大往生と言えますが、惜しい方が死去されました。残念でなりません。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
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