※原文から、一部追記しました
2015年8月9日は、米陸軍航空軍により長崎市原子爆弾が投下されて70年になります。
広島への原爆投下と並び、非戦闘員非戦闘地域を対象にした非人道的行為で、国際法違反でないかとする議論があります。小生も、ハーグ条約に違反する行為として、糾弾したい思いがあります。
そして、8月9日は国際的な事件が起きた日でもあります。それは、ソビエト社会主義共和国連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦した、悲劇の日です。
ソ連軍による婦女子への陵辱、略奪とうの悪辣行為は凄まじく、それは欧州方面のドイツの婦女子が辿った悲劇と同様でありました。
(青字は、追記部分です)
戦後、日本の左翼陣営は、原爆の被害を語ることには熱心でも、ソ連の国際法違反は特段の反応を示しませんでした。そして、その傾向は未だに続いていると言って差し支えないと思います。
当時の関東軍は、第一線戦力を南方に引き抜かれており、それを補うため18歳から45歳の青壮年男子は根こそぎ動員され、兵役に就いていました。関東軍首脳部は、不可解にも総司令部を移転してしまいましたが、多くの将兵は兵力で勝るソ連軍に対して勇戦敢闘、一部は在留邦人の脱出に成功しました。
小生の父親一家は、満州に居留していたことがありました。満州から、台湾、札幌、福岡と転居したため、ソ連軍による略奪からは免れることができました。しかし、亡父は昭和二年生まれであったので、満州時代の知人、友人のなかに兵士として戦死し、またソ連軍によって略奪の犠牲になった人がいたと聞かさています。
ボツダム宣言では、日本軍将兵は遅滞なく復員するものとされていました。しかし、ソ連はそれを無視、数十万の将兵が塗炭の苦しみを味合うことになりました。
※ボツダム宣言第9項
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
父親は、亡くなるまでソ連を許さず、共産主義を許さず、日本の防衛力向上を支持し、日共、社会党、新左翼過激派を嫌悪していました。
8月になると、原爆や終戦の日の特集を行い、戦争の時代の経験者の話として、反戦平和、反米、反保守の宣伝に一生懸命です。しかし、おなじ時代を生きた経験者として、我が父もいます。自分も、我が父から聞かされた話を語り継いていこうと思います。
よく、かつての日本陸海軍将兵が、反戦を語る場面が登場しますが、故小野田寛郎少尉のように、靖國神社に参拝し、日本の安全を憂慮していた元将兵もいます。公平な報道をお願いしたいものです。
大江健三郎さん、福島瑞穂さん、辻元清美さん、吉永小百合さん、関口宏、民主党のお歴々。
あの国際法違反行為に関して、諸氏の考えを聞かせて頂きたいものです。
ソ連軍157万人が満州侵攻 戦車に潰された王道楽土の夢
ソ連対日参戦
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