2017年11月8日、所沢駅から防衛医科大学校付属病院に緊急搬送されてから、早いもので一年の月日が流れた。
帰宅途上、東京地下鉄丸ノ内線内で失認症の症状に襲われ、なんとか所沢駅まで辿り着いたものの、右手の麻痺と完全な失語状態に陥った。駅員さんに通勤鞄に入れていた身体障害者手帳とお薬手帳等を見せ、加えて身振り手振りで救急車を呼ぶようにお願いした。この時点で文字の判読が出来ず、どうしようもない恐怖感に襲われていた。幸い、駅員さんが事態を察し、救急車を手配していただくことができ、病院に緊急搬送された。実は、救急車に運び込まれる直前までの記憶は残っているが、気がついた時には病院の救命救急センターのベッドの中であった。
当初は、全く事態が飲み込めなかった。また発語も出来ず、ERの看護婦さんに質問することも叶わなかった。そこで、看護婦さんに事態を説明してもらいたいと考え、頭の中で五十音の暗唱を始めて、次にアルファベット、家族の名前、住所、勤務先の名称などを必死に思い出していた。しかし、どうしても発語することが叶わず、意識が遠のいていた。
次に意識が戻ったときには救急車の中。防衛医科大学病院から所沢中央病院に搬送される途中であった。そう、この時から発語が少しずつ可能になり、何が起きたのか徐々に理解可能になっていたと思う。
搬送先の所沢中央病院で、主治医である脳神経外科で院長のK医師が出迎えてくれた。ここから、徐々に記憶がはっきりしてきた。4人部屋に運ばれて、一眠り。その間、家族から連絡を受けた兄嫁が病院に様子を見に来たくれたとのことだが、申し訳ないか記憶がない。時計がなかったので正確な時刻が分からなかったが、記憶が回復してきたのは、お昼頃ではないかと思われる。そして、徐々に会話も可能になった。そこで、看護婦さんにお願いした。尿道カテーテルを抜いてほしいと。意識が回復してきたことが確認できたのだろうか、直ぐに処置してくれた。ああ、これで歩き回ることができる、開放感に浸ったことを覚えている。
意識がほぼ完全に回復したのは、思ったより早かったと思う。搬送された日の夕方からは、病棟内を歩き始めた。これは、前回入院時の経験から歩くという行為が殊の外、病状の回復に効果があるということがわかっていたから。
リハビリテーションも始まった。午前午後に、10分程度の散歩も始めた。家族に頼んで、ジャージとスマホ、タブレットを持ってきてもらった。一刻も早く、勤務先に連絡を取る必要があった。焦っていけないと用心したが、日常生活、仕事への復帰へ準備も始めた。これも、前回の入院で学んだこと。入院中は、だらしない生活を送ってはいけない。
緊急入院したことは、数日後にFacebook、LINEなどのソーシャルメディア等で友人、知人に報告した。多くの皆さんから激励とお見舞いのメッセージを頂いた。直接、病院まで訪ねてきてくれた方々もおられる。これは、本当に本当に有り難いこと。皆さんの応援に勇気つけられた。
退院したのは、11月22日(水)。同月24日(金)、鴻巣の運転免許センターに行き、事情を話して自動車運転の適性検査を受けた。もし、否とされたら免許の返上も覚悟していたが、幸いに合格。しかし、その後も長距離の運転は控え、極力徒歩か自転車の使用を励行している。
あれから一年を経過したが、心配した再発もせずに暮らしている。皆さんに、あらためて感謝申し上げる。
また、緊急時に対応して頂いた西武鉄道所沢駅職員の皆さん、埼玉西部消防局の皆さんにも、感謝の気持ちを捧げたい。
私、増田聖一は元気に暮らしています。
m (_ _)m