2018年11月8日木曜日

「緊急入院から一年」


2017年11月8日、所沢駅から防衛医科大学校付属病院に緊急搬送されてから、早いもので一年の月日が流れた。


帰宅途上、東京地下鉄丸ノ内線内で失認症の症状に襲われ、なんとか所沢駅まで辿り着いたものの、右手の麻痺と完全な失語状態に陥った。駅員さんに通勤鞄に入れていた身体障害者手帳とお薬手帳等を見せ、加えて身振り手振りで救急車を呼ぶようにお願いした。この時点で文字の判読が出来ず、どうしようもない恐怖感に襲われていた。幸い、駅員さんが事態を察し、救急車を手配していただくことができ、病院に緊急搬送された。実は、救急車に運び込まれる直前までの記憶は残っているが、気がついた時には病院の救命救急センターのベッドの中であった。

当初は、全く事態が飲み込めなかった。また発語も出来ず、ERの看護婦さんに質問することも叶わなかった。そこで、看護婦さんに事態を説明してもらいたいと考え、頭の中で五十音の暗唱を始めて、次にアルファベット、家族の名前、住所、勤務先の名称などを必死に思い出していた。しかし、どうしても発語することが叶わず、意識が遠のいていた。

次に意識が戻ったときには救急車の中。防衛医科大学病院から所沢中央病院に搬送される途中であった。そう、この時から発語が少しずつ可能になり、何が起きたのか徐々に理解可能になっていたと思う。
搬送先の所沢中央病院で、主治医である脳神経外科で院長のK医師が出迎えてくれた。ここから、徐々に記憶がはっきりしてきた。4人部屋に運ばれて、一眠り。その間、家族から連絡を受けた兄嫁が病院に様子を見に来たくれたとのことだが、申し訳ないか記憶がない。時計がなかったので正確な時刻が分からなかったが、記憶が回復してきたのは、お昼頃ではないかと思われる。そして、徐々に会話も可能になった。そこで、看護婦さんにお願いした。尿道カテーテルを抜いてほしいと。意識が回復してきたことが確認できたのだろうか、直ぐに処置してくれた。ああ、これで歩き回ることができる、開放感に浸ったことを覚えている。
意識がほぼ完全に回復したのは、思ったより早かったと思う。搬送された日の夕方からは、病棟内を歩き始めた。これは、前回入院時の経験から歩くという行為が殊の外、病状の回復に効果があるということがわかっていたから。
リハビリテーションも始まった。午前午後に、10分程度の散歩も始めた。家族に頼んで、ジャージとスマホ、タブレットを持ってきてもらった。一刻も早く、勤務先に連絡を取る必要があった。焦っていけないと用心したが、日常生活、仕事への復帰へ準備も始めた。これも、前回の入院で学んだこと。入院中は、だらしない生活を送ってはいけない。

緊急入院したことは、数日後にFacebook、LINEなどのソーシャルメディア等で友人、知人に報告した。多くの皆さんから激励とお見舞いのメッセージを頂いた。直接、病院まで訪ねてきてくれた方々もおられる。これは、本当に本当に有り難いこと。皆さんの応援に勇気つけられた。

退院したのは、11月22日(水)。同月24日(金)、鴻巣の運転免許センターに行き、事情を話して自動車運転の適性検査を受けた。もし、否とされたら免許の返上も覚悟していたが、幸いに合格。しかし、その後も長距離の運転は控え、極力徒歩か自転車の使用を励行している。

あれから一年を経過したが、心配した再発もせずに暮らしている。皆さんに、あらためて感謝申し上げる。
また、緊急時に対応して頂いた西武鉄道所沢駅職員の皆さん、埼玉西部消防局の皆さんにも、感謝の気持ちを捧げたい。
私、増田聖一は元気に暮らしています。
m (_ _)m

2018年9月26日水曜日

月刊新潮45が休刊と発表 ー 言論の自由は何処に

月刊新潮45が、休刊を発表した。休刊前に発表した新潮社の社長の声明に疑問を感じた。以下、一部を掲載する。

>しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

自分は、杉田氏のLGBTに関する論考を熟読した。反対する部分もあるが、問題のある内容とは思えなかった。勿論、反対意見はあるだろうと思ったが、自由な意見が尊重される社会では反対意見の対峙は必要なことで、全く問題はない。我が国は、大陸や某国や半島の政治勢力と違うのだから。

声明にある、常識に逸脱した偏見と認識不足とは何を意味しているのか。当該雑誌を読んでいないので単なる感想でしかないが、その表現の妥当性を判断するのは、読者ではないか。その上で、賛成反対の意見の対峙があり、そのことで言論が止揚、アウフヘーベンするのではないか。

新潮社は、月刊新潮45の発行部数が低迷していることも休刊に至った理由の一つとしている。これは、理解できる。出版社にとって、営業的な経営判断も重要である。ただ、経営上の課題と言論・表現の問題に結びつけていることに疑問を感じている。

左派系のメディアである毎日新聞も、新潮社の発表に疑問を感じているようだ(朝日新聞は、ウハウハらしい)。そうだろう。反対意見が封殺されるような社会は御免被る。
仏蘭西の哲学者、思想家ヴォルテールの発言とされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」を最初に知ったのは大学生であった。まあ、社会学を専攻する学生とっては、有名なのではあるが、現在にも通じる名言あると思う。今回の休刊問題で、改めてこの名言を思い出した。

月刊文藝春秋の左傾化が著しい。毎月にように安倍政権批判で、20数年以上購読していたが、昨年末に止めた。新潮45は、時折読んでいたが、残念ながら休刊となった。誠に惜しい。
出版不況ということもあるのだろう。しかし、紙媒体の衰退は言論世界にとっての危機であるとも思う。言論の自由を守っていくためにも、左派系保守系を問わず、言論機関の奮起を促したい。

#新潮45
#LGBT

2018年9月18日火曜日

老母の米寿を祝う宴を催した

2018年9月16日、掬水亭で88歳になる老母の米寿を祝う宴が開催された。主催は兄夫婦、弟の自分も協力。
当日は、老母の兄弟姉妹、従兄弟たち、自分たち三人の息子と配偶者三人、5人の孫(孫一人は、体調不良で欠席)、曾孫一人、その父親が一同に会し、賑やかで楽しい時間となった。宴は、和気あいあいと進み、予定していた時間を僅かに過ぎたところで、お開きに。その後は、実家に移動して二次会。最年長の従兄弟が一曲披露、音痴な自分も酔いに任せて亡父が好きだった「異国の丘」歌った。
楽しい宴は22時まで続き、出席者が三々五々引き上げたところで、後片付けを行った後で帰宅(と思います。途中で記憶がないので😅)。
老母の足腰が弱ってきたが、頭はしっかりしている。次は、白寿(99歳)の宴を準備しないと。






2018年8月9日木曜日

長崎への原子爆弾投下から73年

本日で、アメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属のB-29戦略爆撃機「ボックスカー」から長崎に原子爆弾が投下されてから73年の月日が流れた。そこで、一文を記したい月。
8月6日の記事で、 広島に投下された原子爆弾に関して記した。その記事で一つのifを提示した。

”原爆投下前に終戦の決断が出来なかったのか。 ”

筆者の見解では、広島への原爆投下は防げなかった認識している。昭和20年8月6日の状況において、海軍の聯合艦隊は壊滅状態、陸軍はレイテ決戦とインパール作戦で大敗、東南アジアやビルマを統括した陸軍の南方軍は、指揮下の部隊は作戦継続の余力を失っていた。また、満州軍も指揮下の部隊を南方方面に転用され、在留邦人を根こそぎ動員(その中には10代後半の少年兵も含まれていた)して、形の上でソ連軍に対峙していた状況であった。
しかし、大陸方面に展開していた支那派遣軍は総兵力105万余、蒋介石総統率いる国民革命軍に戦術的な勝利を重ねており、士気旺盛で降伏を受け入れる状況ではなかった。

8月9日、長崎にアメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属の爆撃機「ボックスカー」から長崎に原子爆弾が投弾される事態となった。問題は、二回目の原爆投下を防ぐ可能性があったかである。
筆者は、可能性はあったと考えている。勿論、可能性は低かったと思われるが。広島への原爆投下後、終戦への工作、つまり「ボツダム宣言」受諾への動きが、政府や陸海軍などの要人によって密かに始められている。

外務省と陸海軍は、ソ連軍が国際法に違反して満州方面に侵攻してくる可能性を正確に掴んでいる。当時、欧州において日本と国交を結んでいたスペイン駐在の外交官や中立国駐在の陸海軍武官が、その兆候を掴んでいた。しかし、その情報を生かせなかった。これは、戦前の情報戦軽視、戦後の情報機関の不在に現れている。

広島への原爆投下、ソ連軍の満州侵攻の可能性という事象を正確に判断していれば、長崎の悲劇は防げたのではないか、という思いが筆者にはある。

筆者は、あるIT系企業に勤務していた時代、長崎に何度も出張で訪れたことがある。長期出張の場合は、平和公園や『この子を残して』で著名な 永井隆博士が起居した如己堂を訪ねたこともある。
長崎への原爆投下から73年。思い出の地、長崎へ投下された原子爆弾が二度と地上に使用されないように願うものである。

ボックスカー

永井隆

如己堂

平和公園

2018年8月6日月曜日

広島への原子爆弾投下から73年

本日で、アメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属のB-29戦略爆撃機「エノラ・ゲイ」から広島に原子爆弾が投下されてから73年の月日が流れた。そこで、一文を記したい。
中学校1年生か2年生の時、当時の音楽を担当していた先生の発案で、多くの生徒が千羽鶴を折り、広島赤十字・原爆病院に届けたことがある。自分と同級生の2名で新幹線を利用して病院を訪問、入院患者の皆さんに手渡した。当時は、原子爆弾で直に被災した方々が入院されており、実際の経験談を聞くという貴重な体験となった。また、地方紙の取材を受け、中学なりの思いを伝えた記憶がある。

なんと言っても、被爆一世と呼ばれる原爆による被害を実際に受けた皆さんの体験談を直に耳にできたことは、現在に至ってみれば、誠に貴重なことであったと思う。
今、後悔していることがある。あの時の思いを何らかの方法で、文書で書き残して置くべきであったということ。現在になって当時のことを思い起こしてみても、数十年の月日が流れたことで、多くの記憶が薄れてしまったことが残念でならない。
現在であれば、記憶が鮮明なうちにPCやSNSで記録を残しておくことが可能であったろうと思う。拙文も、その思いがあって短いものであるが、過去の記憶を思い起こしている。
原爆による被害は、広島市民や長崎市民のみならず、救援活動に出動した関係者、陸海軍将兵、近隣の市町村に渡り、通常爆弾では考えられない範囲に及んだ。
当時の記録を自分が買い集めた書籍やネットなどで読んでみると、2つの点に焦点が当たると思う。

一つ
原爆投下前に終戦の決断が出来なかったのか。
二つ
原爆による後遺症への対応が十分であるか。

8月6日にソ連が満州に侵攻(日ソ不可侵条約違反の侵略行為)があった。歴史のifが許されるなら、この時点が原爆投下前に終戦に持ち込み機会であったと思う。しかし、当時の軍部や政府の一部でも和平への動きが見られたが、時間的にも原爆投下には間に合わなかったと思われる。なぜなら、原爆投下がボツダム宣言受諾への後押しになったことが明らかである。残念ながら、この歴史のifは、成り立たない願望であろう。

二つ
この点に関しては、筆者は責任を以て発言する根拠はない。今後も、参考となる書籍などを読み、自分の見解を明らかにしたいとおもう。それは逃げだろうと批判があるとすれば、このように応える。その通りです、と。言い訳になるが、このような重大な事柄を公にするには、自分なりの確信を持つことが必要を思うが故である。筆者の逃げをお許し頂きたい。

現在、本日で、アメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属の爆撃機「エノラ・ゲイ」から広島に原子爆弾が投下されてから73年の月日が流れた。そこで、一文を記したい。
中学校1年生か2年生の時、当時の音楽を担当していた先生の発案で、多くの生徒が千羽鶴を折り、広島赤十字・原爆病院に届けたことがある。自分と同級生の2名で新幹線を利用して病院を訪問、入院患者の皆さんに手渡した。当時は、原子爆弾で直に被災した方々が入院されており、実際の経験談を聞くという貴重な体験となった。また、地方紙の取材を受け、中学なりの思いを伝えた記憶がある。

なんと言っても、被爆一世と呼ばれる原爆による被害を実際に受けた皆さんの体験談を直に耳にできたことは、現在に至ってみれば、誠に貴重なことであったと思う。
今、後悔していることがある。あの時の思いを何らかの方法で、文書で書き残して置くべきであったということ。現在になって当時のことを思い起こしてみても、数十年の月日が流れたことで、多くの記憶が薄れてしまったことが残念でならない。
現在であれば、記憶が鮮明なうちにPCやSNSで記録を残しておくことが可能であったろうと思う。拙文も、その思いがあって短いものであるが、過去の記憶を思い起こしている。
原爆による被害は、広島市民や長崎市民のみならず、救援活動に出動した関係者、陸海軍将兵、近隣の市町村に渡り、通常爆弾では考えられない範囲に及んだ。
当時の記録を自分が買い集めた書籍やネットなどで読んでみると、2つの点に焦点が当たると思う。

一つ
原爆投下前に終戦の決断が出来なかったのか。
二つ
原爆による後遺症への対応が十分であるか。

8月6日にソ連が満州に侵攻(日ソ不可侵条約違反の侵略行為)があった。歴史のifが許されるなら、この時点が原爆投下前に終戦に持ち込み機会であったと思う。しかし、当時の軍部や政府の一部でも和平への動きが見られたが、時間的にも原爆投下には間に合わなかったと思われる。なぜなら、原爆投下がボツダム宣言受諾への後押しになったことが明らかである。残念ながら、この歴史のifは、成り立たない願望であろう。

二つ
この点に関しては、筆者は責任を以て発言する根拠はない。今後も、参考となる書籍などを読み、自分の見解を明らかにしたいとおもう。それは逃げだろうと批判があるとすれば、このように応える。その通りです、と。言い訳になるが、このような重大な事柄を公にするには、自分なりの確信を持つことが必要を思うが故である。筆者の逃げをお許し頂きたい。

現在、核拡散防止条約(NPT)により、加盟国は米英仏ロ中以外は核兵器の保有が禁じられている。核兵器という大量殺傷兵器を、米英仏ロ中の独占を許すという、現代の不平等条約と言われる所以である。加えて、NPTから脱退、もしくは加盟を拒否した北朝鮮、インド、パキスタンの核兵器が拡散、イスラエルの核兵器保有も確実視されている。
理想は、核兵器の全廃であるが、一足飛びに実現するとは非現実的発想である。まずは、最も危険な核兵器保有国で、我が国の安全保障上も最も憂慮される北朝鮮に継続的な圧力をかけ、核弾頭を放棄させることが重要と思う。

道のりは永いと思うが、千里の道も一歩から。核兵器の廃絶を考え、原爆投下ら73年の今日、一文を記した。

エノラ・ゲイ

原爆ドーム

広島赤十字・原爆病院




2018年5月31日木曜日

五頭連峰での父子遭難死事故に思う

新聞報道によると、新潟県の五頭連峰で行方不明になっていた親子が、残念ながら、遺体で発見されたとのこと。ご冥福をお祈り申し上げる。

しかし、考えるべきことがことがある。なぜ、父親は6歳の幼児を連れて、五頭連峰で登山をしようと考えたのか。
新潟県阿賀野市観光協会のホームページによると、五頭連峰は5月初頭でも残雪があるとのこと。加えて、登山口の標高は70メートルだが五頭連峰最高峰松平山の山頂は953メートル。標高差は、883メートルということになる。残雪のある山を幼児を連れて、標高差883メートルの登山を行おうとしたことに疑問が残る。
自分は、大学のWV部で登山経験があるが、883メートルの標高差を登るには、周到な準備が必要なことが容易に想像できる。また、少なくとも中学生以上の体力が必要でないか。

産経新聞の記事では、父親が道に迷ったのでビバークすると携帯電話で連絡があったとしている。ビバークという登山用語を知っていると言うことは、山登りの経験があったと思われる。しかし、それであるならば、尚更6歳の幼児をつれて残雪のある5月初旬に登山をするという計画に疑問が残る。
朝日新聞の報道では、子供が父親に覆い被さるように倒れていたという。寒さに震える子供を、何とか温めようとしたのだろう。

観光協会の案内にも疑問がある。
「ルートが多彩で、小学生から熟練者まで楽しめる」
「前後左右、様々な場所に登山口があり、年齢、体力、目的により自由にコースを選べることが五頭連峰の最大の魅力」

どうだろう。幼児を連れても大丈夫だだと誤解を招きそうな文言である。毎日新聞の記事を引用しよう。

「五頭連峰の登山に詳しい新潟山岳会の阿部信一会長(70)の話 この時期でも斜面には雪が多く残り、登山道から外れて沢に迷い込んでしまったのではないか。周辺には高さのある滝が連続する場所もある。この時期に沢を下るにはロープなど一定の装備や技術がないと初心者では非常に厳しい。」

自分も、その通りだと思う。

自分は、大学三年生の夏、体育会WV部の夏合宿で朝日連峰に登頂した。台風の直撃を食い、テントごと吹き飛ばされて、近くの山小屋で避難した。小屋は、避難した登山客で満杯、体力のある大学生は立ったまま、台風の通過を待った経験がある。空腹と寒さで体力が消耗し、もう二度と山など登るものかと思ったものである。山は、例え夏でも危険が隣り合わせである。昨今の登山ブームに危機感を持つ、今日この頃である。

亡くなった、親子のご冥福をお祈りします。

不明の父子と判明 新潟・五頭連峰の遺体

2018年5月22日火曜日

「西城秀樹さんの逝去に思う - 自らの脳出血の体験から」

「西城秀樹さんの逝去に思う - 自らの脳出血の体験から」

 2011年5月22日(日)。脳出血を患い、所沢中央病院に緊急入院した。あれから、7年の月日が流れた。昨年11月8日(火)、帰宅途上の丸ノ内線で体調を崩し、右手の麻痺、失語症(失読症)に襲われ、何とか所沢駅まで辿り着き、駅員さんに身振り手振りで救急車を頼んで貰ったところで、意識不明に。翌9日に所沢中央病院に転院して、2週間以上の入院を余儀なくされた。そうしたこともあって、5月22日は、BlogやFBに脳出血に関して、なにかしら思いを投稿することが習慣となっており、事前に文章を考えていた。その矢先に、衝撃的なニュースが飛び込んできた。

 2018年5月17日、歌手の西城秀樹さんが逝去されたという、驚くべきニュースが列島を駆け巡った。死因は、急性心筋梗塞と報道されている。

 西城さんは、二度の脳梗塞に罹患している。自分と同じ脳疾患である。特に歌手としては致命的な構音障害を発症、一時は引退も決意したという。しかし、夫人の励ましもあり、懸命のリハビリテーションを行い、ステージへの復帰を果たす。もちろん、かつての華麗なステージは、望むべくもなかったであろうが、TV番組でみたリハビリテーションの努力は、おなじ脳血管障害を患ったものとして、大いに励まされた。

 7年前の5月22日、脳出血を発症、医療法人社団和風会所沢中央病院に入院した。診断の結果、脳出血と分かった。原因は高血圧、同年9月30日に退院するまでの入院生活が始まった。所沢中央病院は救急病院であり、通常は2週間程度で退院するか、他の専門医療機関に転院する。ところが、種々の事情で入院期間は一ヶ月以上に渡り、ようやく7月1日に国立障害者リハビリテーションセンター(NRC)に転院した。

 目立った麻痺も見られず、軽い方だと楽観していたのだが、そうは問屋が卸さなかった。NRCに転院後、一時外泊ゆるされた自宅で、識字に異常が現れて所沢中央病院に逆戻り、三週間の検査入院となり、リハビリテーションを中止。8月に予定されてNRC退院、通院リハビリが9月30日まで延期となった。脳血管障害というものは、やはり厄介な疾病だということ、骨身に染みた

 さて、西城秀樹さん。自分より脳血管障害の症状は重く、何よりも構音障害が伴っていたという、歌い手さんとしては致命的な後遺症をもたらした。しかしながら、ご家族の協力もあり、ステージに復帰された。見事で事であり、素晴らしきこと。だからこそ、これからも活躍して欲しかった。

 西城さん死去の報道を知り、勤務先から帰宅後に考えた。自分も、健常者の皆さんより、寿命が短いのだろうなと。そして、その分は有意義に生きないとなぁと。

 慎んで西城秀樹さんのご冥福をお祈り申し上げます。

あれから一年

脳出血から二年が経過しました。

脳出血から二年が経過しました  パート2

脳出血から丸三年が経過しました

脳出血から丸四年が経過しました。

脳出血から丸五年が経過しました。










2018年5月10日木曜日

一躍ヒーローとなった、前川前文部科学事務次官

一躍ヒーローとなった、前川前文部科学事務次官。朝日新聞や毎日新聞など、左派系メディアでご活躍、事務次官退任後も天下りなどせずとも講演料で稼いでおられるような。羨ましい限りである。
しかし、ご当人が在任中に発覚した不祥事に関しては、何ら反省はないようだ。それは、左派系メディアが黙りを決め込み、あれだけ批判していた野党も応援団になっているからだろうと推測している。なにせ、野党の皆様は拘置所に収監中の某幼稚園経営者を手のひらを返したように称える方々なので、さもありなんなんでしょうね。
自分は、以前から報道に中立性を過度に求める必要はないと考えている。TVメディアに関しては議論があるこころだが、活字媒体に関しては、その限りではないと思っている。その代わり、朝日新聞や毎日新聞などの左派系メディアが日本の良心を代表しているなどとは考えていない。朝日新聞珊瑚記事捏造事件、朝日新聞慰安婦報道問題、毎日新聞の西山事件など左派系メディアが起こした不祥事もある。もちろん、讀賣新聞や産経新聞なども同様。各個人が、個別の判断すれば良いだけ。
幸いなことに、インターネットの登場で各新聞報道を比較検証できるようになった。以前は、各家庭が複数の新聞を購読することは難しかった。しかし、ネットで比較検証可能になったことは、素晴らしいことだと思う。
そこで、当該記事である。記事を読んだ。まず思ったのは、表題の付け方。毎日新聞らしいと思った。前川推しがミエミエ、読んでみたら案の定。これからも、前川前次官推しで、暫くはおしていくのだろう。今後の、朝日新聞毎日新聞の前川推しに注目しようと思う。

2018年5月3日木曜日

憲法記念日 - 憲法改正を望む

5月3日は、憲法記念日とされてる。
各地で、憲法の改正を目指した団体、政党などが講演や集会を開催している。また、憲法護持を金科玉条とした政党、労組、団体なども然りである。

自分は、日本国憲法の改正が必要との立場であること明確にしておく。理由は、時代遅れの憲法であるとの認識をもっているためである。

護憲派の一部は、安倍政権での改正は反対という。では、首班が変わればいいのか。この倒錯した論理、理解不能。

護憲派である日本共産党は、最終的には共和制国家になるべきという。そでは、憲法改正が必須じゃないか。これも理解不能。

以下、憲法改正が必要と思う理由である。

憲法9条では、下記のように規程されている。特に第二項の表現が問題で、我が国の国防を担う自衛隊の存在が、全く明記されていなくとも良いのか。自分は、高校時代からの疑問だった。特に、大陸の全体主義国家、半島の独裁国家の脅威から我が国の安全を担う自衛隊は、憲法で明文化されるべきというのが、予てからの持論あった。

非武装中立。国防はどうするのか。大陸の某国は、着々と軍備を増強し、戦術核兵器だけでなく戦略核兵器も増大させている。半島北部の動向も気がかり、南部も怪しいもの。
我が国の安全保障状況は、予断を許さないというのが自分も見解。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


憲法代79条第2項は、最高裁判所裁判官の国民審査に関しての規程である。しかし、日本国憲法の中で、第79条のほど形骸化し、意味のない条項はないと確信する。自分が、日本国憲法を改正すべきとの持論の根拠は、第9条と並び第79条第2項だ。全く、無意味で用のない条項であり、撤廃して然るべきと考える。
第79条 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。2 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後10年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。

憲法89条は下記のように定めている。89条の後段を読む限り、宗教団体や私立学校などには税金を投入してはならないと読める。しかし、日本私立学校振興・共済事業団などを経由して税金が補助されている。筆者も私立大学に学んだものどして、補助金の恩恵に浴した。従って、憲法89条の改正に賛成である。
第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
憲法記念日に当たり、憲法改正賛成の立場から私見を述べたものである。


2018年4月24日火曜日

『日共が、得意がっている』

産経新聞が報じている発言は、確かに不適切の指摘を免れないと思う。しかし、日共の体質にも大いに疑問を感じた。
各報道機関の報道では、下村氏の発言は、日共の関係者が録音し、共産党の小池晃書記局長が公開したもの。といいうことは、日共は自民党議員の講演会に党員か関係者を潜り込ませ、その発言を録音しているのか。まるで、検閲ではないか。空恐ろしいことである。日共は戦前の日本を、さんざん批判している。しかし、自らは検閲紛いの行為を恥じることもなく、正義に行為に酔いしれている。

日共が政権を担う、もしくは政権に加わることなど、なんとしても阻止しなければならないと確信した次第である。

セクハラ録音して週刊誌に渡したことは「犯罪」 下村博文元文科相、撤回し謝罪

2018年2月17日土曜日

『突然の訃報に接して』

2月13日早朝、大学時代の友人からメールが届いた。学生時代に、お世話になった恩師、T先生が逝去されたとのこと。突然の訃報を読み、言葉がなかった。
学生時代の友人や後輩と旧交を温めたのが2月11日。それから、3日も経過せずに接した訃報。ただただ、ひたすらに悲しい。
先生は、公私ともご指導を頂いた恩師であり、人生の導き手であった。突然の訃報に、30年以上に渡る交友が思い出される。

実際のところ、先生と直接に教えを受けたことはない。先生は教育学科で、主に教員を目指す学生を指導された。自分は社会学科の学生、通常はお会いする機会はない。先生の慧眼に触れた端緒は、大学一年生の時に所属する体育会ワンダーフォーゲル部から、体育会本部に派遣されたこと。
先生は、教育学科で教鞭を執られる傍ら、学生課長として学生の自治組織への対応を担当されており、自分は体育会本部員、その後は幹部としてご指導を受けた。

学生時代は、学生の本分に悖る生活、行動ばかりであった(父上様母上様、申し訳ない)。大学の敷地内にブルーシート敷き詰めて、怪訝な顔をする女子学生を傍目に見ながら花見もした。大学祭では、一升瓶片手にどんちゃん騒ぎ。部室の前で、通りがかりの学生を捕まえて無理やり酒を注ぐ。
先生、誠に不真面目な学生集団で申し訳ありませんでした。斯様なわけで、自分達が先生の教えを受けたのは教室ではなく、府中駅前の居酒屋や屋外であったのかもしれない。いや間違いない。

卒業式の日、我々は八王子の日本料理屋に集合した。先生の行き付けのお店で、卒業を祝って下さるとのこと。人数は後輩や先輩も含めて20人以上であったと記憶している。
飲めや食べろと大騒ぎ、勘定のことなど頭になく、お店にあったビールと日本酒を飲み干し、ウイスキーも常連さんがキープしたボトル以外はなくなったところで、漸くにお開き。会費を計算するために女将さんに確認すると、精算済みとのこと。金額は、30万円近く。まずかった。

翌年、同じお店で後輩たちの卒業祝い。ただ、昨年の反省から先輩方と相談して、OBが幾許かの金額を集めることになった。女将さんに事情を話し、先生に分からないように勘定に含めておくようにお願い。しかし、数日後に先生から自宅に電話が。全部ばれていた。叱責された。結局、後日同じ店に行き、先生のご馳走になることに。これも、忘れ難い思い出。

学生時代のみならず、卒業後も何かとご指導、励ましを受けた。自分は、とある事情で卒業式の時点でも就職が決まっておらず、(現在はともかく、当時の就職状況ではあり得ないことだった)。そうした苦境の中で、自分を励まし支援していただいたことは、今でも感謝している。

就職後も、折に触れて先生とお会いする機会があった。同期生が集まる際には、先生もお呼びして、思い出話に花を咲かせた。先生のご自宅にお邪魔したこともあり、奥様の手料理に舌鼓を打ち、グラスを傾けた。

自分の結婚式に先生を招待させていただいた。招待状を郵送するのではなく、ご自宅にお邪魔して直接、出席をお願いした。その際には、自分の結婚を喜び、たしか上寿司を注文して下さり、大変恐縮した記憶がある。ただ、先生にご挨拶をお願いしたのだが、それなら欠席すると押し切られ、上司に主賓の挨拶を頼んだ。先生は、堅苦しいことが苦手で挨拶ごとを避けられていた。駄目元で頼んだが、見事に返り討ちにあった。

2007年、先生が定年を迎えて退職されることになった。OB先輩の発案で、長年のご指導に感謝するため「T先生を囲む会」と名付けられた宴席が企画された。自分も幹事役の一人になり、前年から準備に追われた。自分は、OB代表が朗読する挨拶文を作成する大役を仰せつかり、悪戦苦闘の末、先輩の承諾を得た(その挨拶文、PCに保存してあるはず。探してみよう)。
当日は、OBや現役の学生を含め、数百人の出席者を数えることができ、準備に費やした時間も報われたと思う。これも先生のご人徳である。

2007年2月17日は、その宴から丸11年になる。しばらくは、先生の思い出を振り返る日々が続きそうである。

先生、ご冥福をお祈り申し上げます。そして、我々を天からお守り下さい。

2018年2月13日火曜日

見えない障害 ー 小室氏の苦悩

本記事で取り上げられている「高次脳機能障害」。自分もその患者の一人。症状が軽いと言え、この記事を読んで身につまされる思いでありました。
2011年5月、脳出血を発症して長期間の入院を余儀なくされ、復職後も2ヶ月に一度の診察、複数の薬の服用。経済的な負担も軽くはありません。家族に心苦しくもあります。
昨年11月、所沢駅で右手が麻痺し、喋ることが出来なくなり、駅員さんの通報により救急車で防衛医科大学付属病院に搬送され、二週間以上の入院。多くの方に励ましのメッセージ、感謝しています。

産経ニュースより
さらに問題となっているのが、本人や家族も症状に気づきにくい点だ。「見えない障害」と呼ばれるゆえんだ。
 「手がまひするなどの身体障害なら、本人も周囲も気づきやすい。高次脳機能障害は、外見上は目立たず本人も周囲も気づきにくいんです」と渡辺教授。

そうなんです。亡父も外傷性の高次脳機能障害者でした。しかし、父が抱えている「見えない障害」に気づくことは、自分が高次脳機能障害になるまで理解できませんでした。
小室氏の抱えている苦悩、よく理解できます。
産経ニュースの記事、少々長いですがシェアしてみました。みなさんが、小室氏の苦悩、高次脳機能障害というものをご理解していだけると、有難いです。

2018年2月12日月曜日

『少し遅めの新年会』 ー 大学時代の仲間たちと

『少し遅めの新年会』 - 大学時代の仲間たちと
昨日は、大学時代の友人、後輩と少し遅めの新年会。参加者は、明星大学体育会本部で共に活動した仲間たち。当時、花の女子大生と言われた後輩達。昨日も、若さ溢れる姿と見せてくれました。
毎年、年始とお盆の時期に集まってます。今年は、今まで参加できなかった仲間も姿を見せてくれて、過ぎゆく時間も忘れて楽しい空間を共にできました。
場所は府中。府中は、大学時代を過ごして思い出の地。大國魂神社は、何度となくお参りし、駅前の繁華街では居酒屋で羽目を外す。🍶

お店や他のお客様には迷惑だったと思いますが(ゴメンナサイませ)、今となっては楽しい思い出。昨日も、そうして話で盛り上がり、楽しかったです。次は、7月か8月かな。今から楽しみです。😀
府中駅前も大掛かりな再開発で、その風景も様変わりしてしまいましたが、変わらないのは大國魂神社。その神社を見るたびに安心しますね。⛩️

昨年から、高校時代の同級生達ともと会う機会が増えてきました。LINEやMessengerで近況報告をしたり、昔話をしたりと。今まで、連絡をしてなかった同級生とのコンタクトが復活。MessengerとLINE、Facebookなどは電話やメール以上に役立ちますね。無料通話機能を使えば、電話代を節約できるし(笑)。

昨日の大学時代の仲間たちとの集まりでも、LINEやMessengerが、連絡や情報共有のツールとして有効だと再認識。これからも、こうしたツールを上手に活用しようと思う。
う~ん、楽しかった🤣



2018年1月5日金曜日

またもやゴールポスト動かす、韓国政府 ー 日韓合意を否定か

菅官房長官の発言の通り。日本政府は、韓国の動きに動ずることはなく、2015年の合意に従って、同国に対して毅然として対応すれば良い。

この日韓合意は、野党も一定の評価を行った、謂わば日本国全体の意思表示。韓国側のゴールポストの移動、これでやめるべし。安倍総理のオリンピック訪問も、当然見合わせでしかるべし。

日韓経済交流、民間交流も一定の影響がでることがあるだろう。しかし、韓国側もその覚悟があるのだろう。日本側が、黙って譲歩すると考えていたのなら、それは認識違い。

国家間の合意を一方的に変更するなどある筈もなく、文政権の一方的な考えなど、2015年の合意を盾にとって撥ね付けても、日本政府の国際的な信用には揺るぎはないと思う。

ただ、心配なのは福島某など一部の左派系に国会議員などが、騒ぎ出すこと。まあ、さして影響力のない、烏合の衆などで無視するすればすむけど。

韓国の一方的な言い分など、日本国民の意志として、毅然として撥ねつけよう。

韓国政の一方的な言い分など、日本国民の意志ととして、毅然として撥ねつけよう。

日韓合意「1ミリも動かさない」菅義偉官房長官が強調




2018年1月2日火曜日

皆様
新年明けまして、おめでとうございます
本年も宜しくお願いします。