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2018年11月8日木曜日

「緊急入院から一年」


2017年11月8日、所沢駅から防衛医科大学校付属病院に緊急搬送されてから、早いもので一年の月日が流れた。


帰宅途上、東京地下鉄丸ノ内線内で失認症の症状に襲われ、なんとか所沢駅まで辿り着いたものの、右手の麻痺と完全な失語状態に陥った。駅員さんに通勤鞄に入れていた身体障害者手帳とお薬手帳等を見せ、加えて身振り手振りで救急車を呼ぶようにお願いした。この時点で文字の判読が出来ず、どうしようもない恐怖感に襲われていた。幸い、駅員さんが事態を察し、救急車を手配していただくことができ、病院に緊急搬送された。実は、救急車に運び込まれる直前までの記憶は残っているが、気がついた時には病院の救命救急センターのベッドの中であった。

当初は、全く事態が飲み込めなかった。また発語も出来ず、ERの看護婦さんに質問することも叶わなかった。そこで、看護婦さんに事態を説明してもらいたいと考え、頭の中で五十音の暗唱を始めて、次にアルファベット、家族の名前、住所、勤務先の名称などを必死に思い出していた。しかし、どうしても発語することが叶わず、意識が遠のいていた。

次に意識が戻ったときには救急車の中。防衛医科大学病院から所沢中央病院に搬送される途中であった。そう、この時から発語が少しずつ可能になり、何が起きたのか徐々に理解可能になっていたと思う。
搬送先の所沢中央病院で、主治医である脳神経外科で院長のK医師が出迎えてくれた。ここから、徐々に記憶がはっきりしてきた。4人部屋に運ばれて、一眠り。その間、家族から連絡を受けた兄嫁が病院に様子を見に来たくれたとのことだが、申し訳ないか記憶がない。時計がなかったので正確な時刻が分からなかったが、記憶が回復してきたのは、お昼頃ではないかと思われる。そして、徐々に会話も可能になった。そこで、看護婦さんにお願いした。尿道カテーテルを抜いてほしいと。意識が回復してきたことが確認できたのだろうか、直ぐに処置してくれた。ああ、これで歩き回ることができる、開放感に浸ったことを覚えている。
意識がほぼ完全に回復したのは、思ったより早かったと思う。搬送された日の夕方からは、病棟内を歩き始めた。これは、前回入院時の経験から歩くという行為が殊の外、病状の回復に効果があるということがわかっていたから。
リハビリテーションも始まった。午前午後に、10分程度の散歩も始めた。家族に頼んで、ジャージとスマホ、タブレットを持ってきてもらった。一刻も早く、勤務先に連絡を取る必要があった。焦っていけないと用心したが、日常生活、仕事への復帰へ準備も始めた。これも、前回の入院で学んだこと。入院中は、だらしない生活を送ってはいけない。

緊急入院したことは、数日後にFacebook、LINEなどのソーシャルメディア等で友人、知人に報告した。多くの皆さんから激励とお見舞いのメッセージを頂いた。直接、病院まで訪ねてきてくれた方々もおられる。これは、本当に本当に有り難いこと。皆さんの応援に勇気つけられた。

退院したのは、11月22日(水)。同月24日(金)、鴻巣の運転免許センターに行き、事情を話して自動車運転の適性検査を受けた。もし、否とされたら免許の返上も覚悟していたが、幸いに合格。しかし、その後も長距離の運転は控え、極力徒歩か自転車の使用を励行している。

あれから一年を経過したが、心配した再発もせずに暮らしている。皆さんに、あらためて感謝申し上げる。
また、緊急時に対応して頂いた西武鉄道所沢駅職員の皆さん、埼玉西部消防局の皆さんにも、感謝の気持ちを捧げたい。
私、増田聖一は元気に暮らしています。
m (_ _)m

2018年5月22日火曜日

「西城秀樹さんの逝去に思う - 自らの脳出血の体験から」

「西城秀樹さんの逝去に思う - 自らの脳出血の体験から」

 2011年5月22日(日)。脳出血を患い、所沢中央病院に緊急入院した。あれから、7年の月日が流れた。昨年11月8日(火)、帰宅途上の丸ノ内線で体調を崩し、右手の麻痺、失語症(失読症)に襲われ、何とか所沢駅まで辿り着き、駅員さんに身振り手振りで救急車を頼んで貰ったところで、意識不明に。翌9日に所沢中央病院に転院して、2週間以上の入院を余儀なくされた。そうしたこともあって、5月22日は、BlogやFBに脳出血に関して、なにかしら思いを投稿することが習慣となっており、事前に文章を考えていた。その矢先に、衝撃的なニュースが飛び込んできた。

 2018年5月17日、歌手の西城秀樹さんが逝去されたという、驚くべきニュースが列島を駆け巡った。死因は、急性心筋梗塞と報道されている。

 西城さんは、二度の脳梗塞に罹患している。自分と同じ脳疾患である。特に歌手としては致命的な構音障害を発症、一時は引退も決意したという。しかし、夫人の励ましもあり、懸命のリハビリテーションを行い、ステージへの復帰を果たす。もちろん、かつての華麗なステージは、望むべくもなかったであろうが、TV番組でみたリハビリテーションの努力は、おなじ脳血管障害を患ったものとして、大いに励まされた。

 7年前の5月22日、脳出血を発症、医療法人社団和風会所沢中央病院に入院した。診断の結果、脳出血と分かった。原因は高血圧、同年9月30日に退院するまでの入院生活が始まった。所沢中央病院は救急病院であり、通常は2週間程度で退院するか、他の専門医療機関に転院する。ところが、種々の事情で入院期間は一ヶ月以上に渡り、ようやく7月1日に国立障害者リハビリテーションセンター(NRC)に転院した。

 目立った麻痺も見られず、軽い方だと楽観していたのだが、そうは問屋が卸さなかった。NRCに転院後、一時外泊ゆるされた自宅で、識字に異常が現れて所沢中央病院に逆戻り、三週間の検査入院となり、リハビリテーションを中止。8月に予定されてNRC退院、通院リハビリが9月30日まで延期となった。脳血管障害というものは、やはり厄介な疾病だということ、骨身に染みた

 さて、西城秀樹さん。自分より脳血管障害の症状は重く、何よりも構音障害が伴っていたという、歌い手さんとしては致命的な後遺症をもたらした。しかしながら、ご家族の協力もあり、ステージに復帰された。見事で事であり、素晴らしきこと。だからこそ、これからも活躍して欲しかった。

 西城さん死去の報道を知り、勤務先から帰宅後に考えた。自分も、健常者の皆さんより、寿命が短いのだろうなと。そして、その分は有意義に生きないとなぁと。

 慎んで西城秀樹さんのご冥福をお祈り申し上げます。

あれから一年

脳出血から二年が経過しました。

脳出血から二年が経過しました  パート2

脳出血から丸三年が経過しました

脳出血から丸四年が経過しました。

脳出血から丸五年が経過しました。










2017年9月30日土曜日

退院して丸6年になりました。

本日9月30日で、国立障害者リハビリテーションセンター病院を退院して、丸6年になります。
2011年に脳出血を発症、所沢中央病院に緊急入院、国立障害者リハビリテーションセンター病院に転院、一時帰宅中に体調を崩して救急車で所沢中央病院に緊急搬送、国立障害者リハビリテーションセンター病院に再入院と、色々とありました。
早いもので、あれから6年の月日が経過しました。その間に、高校生だった長男は大学4年生。お陰様で就職も決まっています。中学生だった次男は、大学二年生。今年の夏は、北海道の農業インターンシップに参加。何か、得るものがあったようです。
脳出血の後遺症は、治ることはありません。今後も再発に注意しながらの通院が続きます。しかし、幼馴染や高校、大学時代の友人、新たに知り合った地域の皆さんや友人との交流で、現在に至ってます。皆さん、今後とも宜しくお願いします。


2016年5月22日日曜日

脳出血から、まる五年が経過しました。

2016522日で、脳出血を発症し所沢中央病院に緊急に入院してから丸五年になりますが、早いものですね。五年の月日は、知らぬ間に過ぎ去ってしまったと思えます。


写真は、文字が書けなくなった時の使った練習したノートです。これでも、50音全部を書いたと思ってました。「ぬ」と「め」、「ね」を「わ」など、字体が似ていると間違えやすかったですね。実は、今も戸惑うことあります。


入院当初の記憶は錯綜しており、途中からは全く覚えていません。が、皆様のお陰を持ちまして生きております。
現在も2ヶ月の一回の通院、4種の薬の服用が欠かせません。この薬の服用、生涯続きます。

中学校時代の同級生が癌になりました。同級生が集まった席で、二人して癌と脳出血、どちらが質が悪いか、どちらが先に命が絶えるか、笑いながら話したことがあります。それを聞いた同級生から、縁起の悪いことは言ってはいけないと、お叱りを受けたこともあります。

癌は、5年生存率が問題になりますね。5年間、癌の再発が無ければ治癒と見做すという考えです(あくまで見做すであって、5年以上経過して再発する例もあります)。
脳出血、そうはいきません。脳出血は、脳の細胞を破壊します。そして、破壊されてた脳細胞は再生しないからです。

所沢中央病院に脳出血で入院、手術を受けて急性期リハビリテーションを受けました。その後、国立障害者リハビリテーションセンターに転院、回復期リハビリテーションが始まりました。
そこで、心療内科の主治医や担当の臨床心理士から宣告を受けたことがあります。発症前の状態を100としたら、現在は5060かと。そして、それをリハビリテーションで7080909192と回復させていく、しかし100に戻ることはないのだと。それを聞いても、最初は楽観的に考えていました。

転院当初、幾つかの検査を受けるのですが、段々分かってくるというか、思い知るわけです。それまでは、楽観的に考えていたのに、検査の結果は明らかなんです。それまで出来ていたことが出来ない。これ、けっこう辛いものです。

自分の場合、脳出血が発症した箇所は左側頭葉の血管です。これは、MRIの画像でも明らかなのですが、脳細胞が死滅した部分は白くなっており一目瞭然。その画像を見れば、どのような後遺症をもたらすかも判断可能です。

自分の脳出血の患部は、言語を司る部分でしたが、字が読めない、書けない症状がでるんです。これは、難儀しました。
「話す」も支障がでました。話していても、詰まるんですね。単語が直ぐに出てこない。頭の中では浮かんでいるのですが、発生できない。しょうがないので、別の単語で置き換える。疲れますね。

最も悩まされるのが眩暈(めまい)です。軽い眩暈は毎日のことですが、ときたま重いのに襲われます。重い眩暈は、冬場で朝方が多いのですが、その症状がでた場合は基本的には休暇を取得します。年間の有給休暇には、眩暈で休む分も見込んでおきます。

主だった後遺症は以上ですが、他にもあります。結局、脳出血という疾病は完治しないという事実を身に沁みるわけです。だらといって、諦めてもいません、今は。
正直にいうと、最初は投げやりになったことは否定しません。段々に、自分が出来る範囲のことをしようと思えるようになりましたが、そこまでに行くまでに時間がかかりました。

脳出血にせよ脳挫傷にせよ、脳の機能に損傷があり、何らかの機能障害があった場合は、高次脳機能障害と呼ばれます。勿論、自分は高次脳機能障害と診断されました。MRI画像からの、検査の結果から否定しようのない判断です。


高次脳機能障害、外見的には分からないのが、患者のとって辛いところです。高次脳機能障害患者は、多かれ少なかれ、これで苦労します。家族も友人も知人から、直って良かったねと言われることが度々です。しかし、記述したように発症前の状態には戻らないのです。直ったと言われるのが、一番辛く腹立たしい。これは、患者全員が経験することです。



亡くなった父親が、自分が19歳の時に頭部を強打して脳挫傷になりました。それで、開頭手術が必要になり、医師から手術への同意を求められ、署名ししました。脳挫傷になった箇所は、左側側頭部。奇しくも自分と同じです。
医師から、後遺症として計算、読み書きに支障がでる可能性があると宣告されました。自分も同じです(当時は、高次脳機能障害という概念がなかったのですが)

リハビリが終わって、父親が帰宅した時、我々家族も親族も直って良かったと言い合ったものです。しかし、直っていないことは、父親自身が最も理解していたのでしょうね。

自分も高次脳機能障害になって初めて理解しました。国立障害者リハビリテーションセンターから退院、自宅療養になったところ、家族兄弟親戚から直った直ったと言われた時、腹立たしいものありました、正直。同時に、父親に対する後悔の念が湧いてきて、これは今もあります。

年一回、国立障害者リハビリテーションセンターで同じ病棟に入院した患者仲間と食事会をて、色々なことを話します。高次脳機能障害への無理解から、周りの人が理解してくれないことへの不満がでますね。それで苦労した元患者もいますし。
今年も529日に昭和記念公園に集合する予定です。年齢は、50代から20代まで幅が広いですが、高次脳機能障害を互いに理解してくれる、貴重な集まりです。

発症から五年です。発症から、一〇年、一五年・・・・。五年というのは筋目ですが、自分は50歳で脳出血を患ったので、発症から計算すれば自分の年齢が簡単にわかります。便利です。


癌と脳出血、質の悪いどちらか。五年以上再発がない友人の勝利ですかね。まさか、逆転勝利を願う訳にもいきませんから(笑)

2015年5月22日金曜日

脳出血から、まる四年が経過しました。

脳出血から、まる四年が経過しました。

 平成27年(2015年)522日。本日で、脳出血を発症してから丸四年が経過しました。
四年前の平成23522()脳出血を発症し家族の手によって所沢中央病院に担ぎ込まれました。 

 前日から異常を感じていました。それは、文字が認識出来ないこと。記号としては理解できるのですが、文字や単語としては全く理解できない状態でした。21日は、事情があって酒席に連なっていたこともあり、飲み過ぎたと思い早目に就寝しました。
そして、問題の522日、早朝のことです。やはり、TVのパンフレットの文字は単語が理解できません。このことを、家族や親族を含め、多くの方に話しても分かって貰えません。それそのはずです。自分でも、どうやって説明して良いのか分からないのですから。
 
 脳神経外科、心療内科の主治医、産業医の診察では失語症と診断されています。つまり、言語の能力を毀損している。

 失語症をとは、言葉が話せない事だけでなく、文字の認識が出来ない、読めないことも含まれます。何か書かれているのは分かるのですが、文字なのか記号なのかが、全く理解できませんでした。だから、当然文章の理解など出来る筈もありません。
 失語症は、「聞く」「話す」「読む」「書く」失った高次脳機能障害の一つと定義されています。



 自分は、「読む」と「書く」の機能が損なわれていました。22日朝、文字を思い出そうとして悪戦苦闘、書こうとして四苦八苦でした。「話す」に関しても、まともな会話が成立していなかったようです(家族、親族の話)。

 これが、高次脳機能障害、失語症です。手術や投薬、リハビリテーションにより、発症直後に比べて、症状は改善しています。しかし、現在の医学では、高次脳機能障害を完治することはありません。これからも、後遺症や病状の再発に気をつけながらの日々が続きます。
 健康に留意しながら、健常者の皆さんと変わらない日々を送りたいと願っているこの頃です。







 白くなっている部分が患部です。脳出血により、脳細胞が死滅しています。脳内出血により、脳細胞が死滅してしまったことが、高次脳機能障害の原因です。