本日で、アメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属のB-29戦略爆撃機「ボックスカー」から長崎に原子爆弾が投下されてから73年の月日が流れた。そこで、一文を記したい月。
8月6日の記事で、 広島に投下された原子爆弾に関して記した。その記事で一つのifを提示した。
”原爆投下前に終戦の決断が出来なかったのか。 ”
筆者の見解では、広島への原爆投下は防げなかった認識している。昭和20年8月6日の状況において、海軍の聯合艦隊は壊滅状態、陸軍はレイテ決戦とインパール作戦で大敗、東南アジアやビルマを統括した陸軍の南方軍は、指揮下の部隊は作戦継続の余力を失っていた。また、満州軍も指揮下の部隊を南方方面に転用され、在留邦人を根こそぎ動員(その中には10代後半の少年兵も含まれていた)して、形の上でソ連軍に対峙していた状況であった。
しかし、大陸方面に展開していた支那派遣軍は総兵力105万余、蒋介石総統率いる国民革命軍に戦術的な勝利を重ねており、士気旺盛で降伏を受け入れる状況ではなかった。
8月9日、長崎にアメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属の爆撃機「ボックスカー」から長崎に原子爆弾が投弾される事態となった。問題は、二回目の原爆投下を防ぐ可能性があったかである。
筆者は、可能性はあったと考えている。勿論、可能性は低かったと思われるが。広島への原爆投下後、終戦への工作、つまり「ボツダム宣言」受諾への動きが、政府や陸海軍などの要人によって密かに始められている。
外務省と陸海軍は、ソ連軍が国際法に違反して満州方面に侵攻してくる可能性を正確に掴んでいる。当時、欧州において日本と国交を結んでいたスペイン駐在の外交官や中立国駐在の陸海軍武官が、その兆候を掴んでいた。しかし、その情報を生かせなかった。これは、戦前の情報戦軽視、戦後の情報機関の不在に現れている。
広島への原爆投下、ソ連軍の満州侵攻の可能性という事象を正確に判断していれば、長崎の悲劇は防げたのではないか、という思いが筆者にはある。
筆者は、あるIT系企業に勤務していた時代、長崎に何度も出張で訪れたことがある。長期出張の場合は、平和公園や『この子を残して』で著名な 永井隆博士が起居した如己堂を訪ねたこともある。
長崎への原爆投下から73年。思い出の地、長崎へ投下された原子爆弾が二度と地上に使用されないように願うものである。
ボックスカー
永井隆
如己堂
平和公園
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