本日は、「日本国との平和条約」所謂サンフランシスコ条約と「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)が締結された日です。
現在、国論を二分していると思われる安全保障法制は、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約(旧)と(新)との関係、その間の国際情勢を考察しながら検討する必要あがると考え、拙文を起草致しました。
両条約の前年であり1950年には、朝鮮戦争が勃発しています。また、警察予備隊も発足、日本の再軍備路線が明確になりました。
サンフランシスコ条約の締結にあたっては、日本国内においては、朝野を巻き込んだ大論争が巻き起こりました。米国が主導する西側諸国との講和を目指した単独講和派と、ソ連を盟主とした東側諸国おも講和の対象にした全面講和派との対決でした。
全面講和論は、南原繁東大総長を代表とする学者が中心となり、日本は厳正中立を保ち、国外から全ての外国軍隊を撤収すべきという立場でした。それに、左翼陣営が賛同、後の非武装中立路線にも繋がっていきます。
単独講和論は、米国を中心とした西側諸国との講和を優先し、日本が完全に資本主義陣営に参加することを目的としていました。
単独講和は、米国との同盟関係を基軸として安全保障重視路線、全面講和は非武装中立に繋がる平和路線と言えるでしょう。これは、現在の安全保障法制論争に相通ずるところがあります。
両派の論争は、後に進歩的文化人(今は死語なりました)と呼ばれる左派言論人と、現実論に立脚した保守派言論人との言論闘争でもありました。
時の総理大臣の吉田茂は、東大総長南原繁に対して「曲学阿世の徒」と厳しく非難、南原も吉田に対して学者に対する権力的弾圧と指弾しました。
後の総理大臣である佐藤栄作自由党幹事長は、「政治的観点から現実的な問題として講和問題を取りとりあげている」と、学者達を非難しています。
南原は、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張しました。当時も単独講和論が優勢であった訳ではありません。もしかしたら、逆であった可能性もあります。
これは現在の安全保障法制で、反対派が使うレッテルと瓜二つです。つまり、安全保障法制反対派こそが、全国民の欲するところという訳です。
自分は、南原東大総長の言う全問講和に固執していたら、日本の独立は遅れていたと思います。それは、当時の東西冷戦の進展した状況において、米国が自陣営からの日本の離脱を認めるとは思えません。全面講和とは、中立とは言いながら、当時の左翼系言論人の本音は、ソ連に融和的であったからです。
当時の現実論と理想論との言論対立は、現在も同様であろうと思います。共産支那は、話し合いで何でも解決できる相手と見るか、その軍備拡張に危機意識を持つか。
自分は、危機感と持つ立場から安全保障法制に賛成しています。今回の安全保障法制では、戦後の近代史からの観点からの考察も必要と思いますが、反対派の論拠は、情緒論に終始して、現実論に立脚した思考が欠けているのは、全面講和論と相通ずるところがあるとしたのは、以上の理由からです。
本稿は、以降も続きます。