八国山と焼団子と山田うどんと埼玉西武ライオンズ。 この4つは、自分にとって郷土の象徴です。子供時代の遊び場にしてトトロの舞台と呼ばれている八国山。焼団子と山田うどんは、所沢市民のソウルフード。地元に本境地をおく埼玉西武ライオンズ。 私は、所沢生まれの元情報システムエンジニア。郷土を愛するエンジニアのBlogです。
2012年11月28日水曜日
所沢航空発祥公園に、世界で唯一飛行可能な零戦が到来しました
わが所沢には、航空発祥記念公園にと呼ばれる施設があります。この公園は、大日本帝国陸軍が日本で最初に設置した軍用飛行場でした。戦後は、米軍に接収され米陸軍、空軍の有人施設として使用されていました。
現在は、施設の一部が返還され無人の米空軍基地となっています。市民からは、通称「通信基地」と呼ばれます。
私の母校は、返還された通信基地の跡地に建設され、埼玉県立所沢北高と言います。その他に、基地跡地に建設された施設として、防衛医科大学校、防衛医科大学校附属病院、私が入院生活を送り、今も通院している国立障害者リビリテーションセンターなどがあります。
陸軍所沢飛行場
所沢通信基地
その所沢航空発祥記念公園(航空公園)に、期間限定で零式艦上戦闘機五二型が展示されることにことになりました。
所沢航空発祥記念公園
「日本の航空技術の100年と今後」
この零戦五二型は、サイパンで米軍に捕獲された本物で、しかも発動機も栄二一型搭載です。産経新聞の報道よりますと、老朽化もあり今後が飛行の機会が無くなる可能性もあるとのことです。
私の亡父は、旧制東京都立航空専門学校発動機科卒業でした。父からは、零戦の話は良く聞かされて育ったのです。その関係もあり、今回の零戦の期間限定の展示には、もの凄く興味があります、。航空公園は、自転車で行ける範囲なので、何度も通ってみる積もりです。
零戦組立見学会
2012年8月19日日曜日
終戦記念日と命日と高次脳機能障害 再掲
2012年8月15日、終戦記念日でした。天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、また戦没者のご遺族がご出席する中、全国戦没者追悼式が開催されました。8月15日は終戦記念日ですが、私にとって、家族のとっても特別な日です。丁度20年前の1992年8月15日土曜日、父親が肝臓がんで他界しました。例年、8月15日は酷暑だという記憶があるのですが、この日もそうでした。
毎年8月15日は、菩提寺のご住職が実家に来られてお経を挙げて頂くのが慣例です。その慣例が果たせなかったのが、2010年8月15日でご住職が体調を崩された年と2011年8月15日、私が入院していた年です。
父親は肝臓がんを患い、それが病因となって65歳で他界しました。その父が他界する12年前の1980年、脳挫傷の大怪我を負いました。その日は、所用があって母親の実家(長野県)を訪ねた日の出来事、私が大学一年生の時でした。夜(金曜日であったと記憶しています)、叔父から電話があり父親が怪我をしたので、健康保険証を持って急ぎ来て欲しいとのこと。翌日早朝、信越本線を使って長野駅で待ち合わせた叔父を訪ねて行きました。その場で、脳挫傷であること、手術の必要があること聞かされました。長野駅の最寄りにあった長野日赤病院に駆けつけ、担当医の話を聞きました。
担当医の話は、19歳の大学生にとっては衝撃的なものでした。脳内にピンポン玉大の血腫があり命に関わる状態であること、手術の成功の可能性は50%、成功しても言語と計算に障害が残る可能性あることの説明がありました。その上で、手術の同意書に署名して欲しいと言われました。母親と二人なのか、私一人だったのか記憶が確かでないのですが、同意書にサインをしました(私一人で署名した記憶があります)。
結局手術は成功、しかし高次脳機能障害が残りました。計算は日常生活に支障がでることはありませんでした。ただ、失語症で悩まされることとなった訳です。
私は、高血圧症を起因とする脳出血、左側頭葉の脳血腫となり、失語症が残りました。父は頭部外傷、自分は脳血管障害となり、父親と障害の程度は異なりますが、何の因果か同じ失語症に悩まれることとなった訳です。しかし、自分が父親と同じ失語症となり、初めて分かることが多々あります。
失語症なので、言葉が素早く出ないことが少なくありません。特に緊張した場面や、初めて会う人などの場合、どうしても言葉が上手くでません。その事で、職場でも辛い、また悔しい思いをすることがあります。家族や知り合いに申し訳ないと思うこともあります。そして、思うのです。亡き父親も同じであったのだろうと。辛い時、悲しい時、情けない時、時々に思うことがあったのだろうと。
よく親が亡くなってから初めて理解ることがあると言われますね。私は、それに加えて程度の問題はありますが、父親と同じ失語症になったことで、亡き父親の思いが理解できるようになりました。これは、母親にも兄弟にも家族にも判り難いことだと思います。そして、その事を非難する考えもありません。私も、自分自身が高次脳機能障害となり、そこで初めて解ったことですから。
私の病気に関しては、家族にも兄弟にも親類にも友人にも職場の同僚、上司(一部を除く)にも感謝しています。また、迷惑をかけたことを申し訳なく思っています。父親も自分の怪我について、恨みがましいことを言っていた記憶はありませんでした。ただ、自分も同じ失語症になったことで、父親の葛藤が理解出来るようになったということです。そして、自分自身にも同じような葛藤があるということです。
父親の他界から20年、私も症状は軽いとはいえ同じ境遇になり、日々考えることが多くなってきています。考えながらも、前向きな考えでないといけませんね。時として、否定的な思いになることが、正直あります。しかし、病気になってしまったことは事実として受け入れないといけません。否定的にならず、前向きにいこうと思っています。
m(_ _)m
2012年7月27日金曜日
2012年7月4日水曜日
ヒッグス粒子 発見さる!!!
世界の理論物理学者が待ち焦がれ、実験物理学者が発見にしのぎを削っていた究極の素粒子です。
来月号のサイエンス関係の雑誌は、このヒッグス粒子発見に話題で持ち切りでしょうね。
2012年6月26日火曜日
同窓会
222人の同級生がいるのですが、80人位出席したそうです。おじさん、おばさん達が昔に帰り懐かしい時を過ごした一日でした。失語症、やはり言葉が詰まる場面は時たまあり、これは致し方ないですね。あと、正直なところ必要以上に気を使ってくれのも、勘弁して欲しいという気もあります。
同窓会は、当初は西武ドームに併設された「獅子」と言うレストランで開催される予定でした。しかし、とある事情で営業停止になり、「掬水亭」という店に変更になりました。
ところで、自分達が卒業した中学校には有名な先輩がいます。我々は、武蔵野丘陵緑豊かな土地で育ちました。最近ではトトロの森として、あの映画の舞台とされた所です。八国山と言われ、子供時代は良く遊んだものでした。
その先輩も同様で、我々と同じ土地で育ち、遊んだことと思います。その先輩の名は、所ジョージ言います。
私の亡父の菩提寺の住職は、所ジョージ大先輩の一年後輩で、先輩はかなりやんちゃだったと言ってましたね。
私の自宅はから歩いて10分程度で、東村山市です。その東村山市と所沢市の境に八国山があり、トトロの森があります。
トトロの森
八国山は、その稜線が埼玉県と東京都の都県境になっており、所沢と東村山両市の立て札や看板が稜線を挟んで立ち並んでいる面白いところです。
そして、その東村山市にとある中学校がります。その中学校は、八国山があり、トトロの森の近くにあります。そして、所ジョージ大先輩と同じように、その中学校にも大有名人がいます。その有名人の名は志村けんさんです。つまり、所ジョージ先輩と志村けんさんは、直ぐ近くの同郷と言って間柄なんですね。
次の同窓会は五年後位でしょうね。その時は楽しみですね。
2012年6月24日日曜日
MRI検査でした
二ヶ月に一回、主治医の診察を受けているのですが、土曜日に診察を受けられるので助かります。
昨日は、MRI(核磁気共鳴画法)による検査でした。昨年の9月にもMRIの検査を受けており、今回は回復の状況を判断するためのものでした。
核磁気共鳴画法
念のために昨年(2011年)の脳出血発症の経過をおさらいします
5月21日(土) 所用のため実家宅訪問(11時頃)。飲酒。
5月22日(日) 5時頃、意識の障害。所沢中央病院Vに入院
5月30日(月) 血腫除去手術
7月1日(月) 国立障害者リハビリテーションセンターに転院
7月15日(金) 外泊。視野障害発生。所沢中央病院に緊急搬送、再入院
MRI撮影
8月8日(月) 国立障害者リハビリテーションセンターに再入院
7月15日のMRI撮影で、脳浮腫(脳のむくみ)が指摘されました。主治医の話だと、脳出血に伴い脳浮腫が発症するのは、約束事というか当然行うべき治療みたいです。普通は、血腫を除去した後、抗脳浮腫療法を施すようです。
脳浮腫(Wikipedia)
Yahoo百科事典(脳浮腫)
脳浮腫もある程度回復したという事でリハビリのため、国立障害者リハビリテーションセンターに転院したのですが、所沢中央病院に再入院した後のMRI撮影では、脳浮腫が拡大していました。その治療に三週間を要ました。
昨日のMRI撮影は、脳浮腫の様子を診断するのが目的でした。主治医の話では、残念ながら治癒はしてませんが、かなり回復しているとのこと。一安心でした。
来週の水曜日、所沢中央病院の紹介状と、MRI画像のCD-ROMを持って、国立障害者リハビリテーションセンター診療内科での診察です。どういう判断がでるか、ちょっと緊張すね。
(私は、二つの医療機関で、二人の医師を主治医としています)
2012年6月21日木曜日
情報セキュリティコントロール協会年次総会
私は、公認情報システム監査人(CISA)試験に合格して以来、総会に欠席したことはありませんでした。
しかし、昨年はとうとう脳出血のため欠席の已むなきにいたり、無念ながら連続出席記録が10数年振りに
途絶えてしまいました。昨日は、その総会に2年振りに参加してきました。
��昨年は、総会開催日は入院してましたからね)
私は、病のためにISACA東京に支部の活動が滞ったかというと、そのような事は全くありませんした。
まあ、当然で私の如き者のために、支部の活動に支障がある筈もないのですが。
二年ぶりに出席しましたが、役員の皆さんの半分が入れ替わりお初の方が多かったいうのが感想です。
新陳代謝があることは、組織の健全な発展のためにはめでたい事ですね。
基調講演では、ControlからManagementという潮流だというお話でした。しかし、AuditからControlへ
転換するのではなかったのかな、とふと思いました。そのためにEDPAAからISACAに組織名を変更した訳ですから。
もしかしたら、ISACAから別の組織名に変わるのかとふと思いました。
昨年に総会は脳出席で出席できなかったことを、数人に方に話してきました。みなさん吃驚されてました。
後遺症(失語症)のことも話しましたが、そうは見えないと言われますね。これは、致し方ないのですが、
当の本人からしてみれば、喋ることはそんなに簡単ではないのです。
まあ、兎にも角にも久振りに支部の皆さんの話ができて、一歩前進できた思いです。
2012年5月20日日曜日
あれから一年
2011年5月~12月
5月21日(土) 所用のため実家宅訪問(11時頃)。飲酒。
不調を感じて、夕方に帰宅。夕食をとる。この時、識字できなくなる。
(文字が理解できなくなり、図形という認識)
酔っているためかと思い、早めに床に就く。
5月22日(日) 5時頃、相変わらず識字の異常を感じる。また、自分で何をしていいか分からなくなる。
何を思ったか、実家に自転車で行く。母、兄、義姉を起こし、不調のことを話す。
(実家は、徒歩で10分程度の距離。兄一家、母は同居、父は既に他界)
何故、実家に行ったかは、今でも不明。
母、兄、義姉が異常を察する。義姉が自転車で自宅に駆けつける。
自宅から妻が駆けつける。直ぐに市内の救急病院に急行する。
そのまま入院。
最初の二日は、このように始まりました。これが、入院とリハビリに至る七ヶ月間の始まりでした。入院したのは、所沢市内の救急病院です。ここで、5~6月一杯入院しました。
手術も受けたのですが、医療明細によると、定位的脳内血腫除去術と記載されています。6月1日のことですね。看護婦さんにバリカンで丸剃りにされ、部分麻酔での手術でした。この術式は、頭部を開く開頭手術と異なり、血腫に最小限の穴を空けて吸い出すと言う方式で、患者負担の小さい方式です。私も、こんな簡単なのかと思いました。
7月1日に国立障害者リハビリテーションセンター(英文正式名はNational Rehabilitation Center for Persons with Disabilities、以下NRC)に転院、リハビリを開始しました。NRCは、厚生労働省管轄下のリハビリの専門医療機関で、所沢市内にあるので、家族の負担も軽く有難いことでした。
��負担が軽いといっても、他の患者さん他に比べて相対的にということで、家族には申し訳ないことをしました)
7月15日(金)、外泊許可が出たので一時帰宅しました。しかし、一時的に文字が認識できない症状になり、家族の判断で救急車で緊急搬送、最初の救急病院に救急入院しました。リハビリは、一旦中止となりました。
三週間の再入院になったのですが、精神的に一番辛い時期でした。センターとの話し合いで、8月中旬に退院、通院リハビリを行う予定だったのが白紙に戻っただけでなく、結局9月末まで入院することになりました。
検査の結果、再手術の可能性あり、しかも開頭手術も必要ということにあり、正直凹んでました。
今から考えると申し訳ないのだけど、家族もあたりました。
8月8日(月)、NRCに再入院しました。リハビリ再会になり、三歩後退一歩前進という感じでしたね。
8月と9月はリハビリに専念、病院では臨床心理士から仕事のことは考えないようにと言われたいたこともあり、療養していました。
10月、ようやく退院、通院リハビリになりました。自宅が近いということが、とてもたすかりました。
12月半ば、勤務先関係者もNRCに来て貰い、主治医と復職に向けての協議をしました。一月から短縮勤務の通院を行う方向になりましたが、妻と二人で通勤のリハーサルを行うことになりました。
2012年1月、2月まではリハビリを行いながら、徐々に短縮勤務の通勤も開始しました。
3月、短縮勤務ながら週五日での通勤になりました。
4月、内勤に留めること、長時間の残業や出張は控えることなどを条件に、通常の勤務に戻りました。
駆け足で、経緯を辿ってきましたが、脳出血のダメージは一年で回復するものではなく、今後も注意が必要です。しかし、ようやく一年、ここまできました。
家族、同僚、友人、知人等々、ご心配頂いた皆さんに感謝いたします。ありがとうございました。
後記
脳出血のダメージは、完全に直るものではありません。というより直りません。それをリハビリで、少しでも改善させるのが目的です。今後は、そのリハビリや、受けた治療について時たま、投稿しようと思ってます。
2012年4月30日月曜日
No title
いずれ、脳出血の経過についても体験記を投稿しようと考えていますが、思えば二回の入院で家族には負担をかけました。皆さんも、健康には十分に気をつけて下さいね。では、入院体験記再掲です。
昨年2回(2009年9月と11月~12月)の入院をしたことは既報のとおりですが、実は今月一杯の予定で、我が家の最高経営責任者(CEO)兼最高財務責任者(CFO)兼最高業務執行責任者(COO)である嫁殿が入院しています(知人からは、夫婦で入院が趣味なのかと突込みが入っています)。ので、働く主夫をしています。朝、洗濯をし朝食の用意をし、子供をたたき起こし、食事をしてから出勤してるので、大変です。
私は、自宅近く(職場からは距離がある)防衛医科大学校病院に入院しましたが、嫁殿は飯田橋の東京逓信病院、私に職場からは歩いていける距離(自宅からは距離がある)なので、仕事の帰りに病院に寄ってます。2月21日には、子供を連れて病院に行ってきました。
ところで、お題は「入院体験記 - 鼓室形成術」です。私の入院体験記を掲載します。その理由は、恩返しです。生死に関わる手術ではないとは言え、多少なりとも不安はあり、その不安を取り除いてくれたのが、インターネット見つけた入院体験記でした。その体験記を綴った記録を掲載、恩返しのしたいと考えておりました。
面識の全くない人達の体験記、同じ症状を持ち自分にとって非常に有益なのものでした。そこで、私の入院体験記を掲載、同じ症状を持つ方々に少しでもお役に立てばと考えた次第です。
入院中のメモを元にしているのですが、文書として書き上げるのに時間がかかったのと、自分の怠慢とで退院後2ヶ月を経過しての投稿なってしまいました。
鼓膜の代わりに移植した筋膜の生着と聴力の検査のために定期的な通院は、今も続いています。が、そろそろ入院体験記を掲載、恩返しの一助としたいと思います。
入院の記録
病名 慢性中耳炎
術式 鼓室形成術
入院先機関 防衛医科大学校病院耳鼻咽喉科
病棟/病室 防衛医科大学校病院西病棟十階1056号室
入院期間 2008年11月27日~2008年12月6日
2008年11月27日木曜日
入院日。8:20、車で自宅を出発、運転は我が家の最高権力者が自らハンドルを握る。次男も同乗。朝から股関節が痛いと言うので、午前中は外科に行くことになり、同乗させた。途中、実家に立ち寄り、母親をピックアップ。
8:50、防衛医科大学校病院着。我が家の最高権力者は予定を変更、入院手続と手術の説明に同席せず、次男を連れて別の病院へ。防衛医科大学校病院は、紹介状ないと受診できないので。
当日は、防衛医科大学校病院の設立記念日で休診日のため、救急病棟の受付で、入院手続。先客あり、休診日と知らずにきた受診希望者が、診察を要求していた。事務職員が休診日であることを説明、翌日以降の受診を説得していたが、聞き入れない。何時まで続くのか、気を揉んでいたら別の職員が対応してくれた。
西病棟十階に記録室(ナースセンター)に入院申込書を提出。病棟担当の女性事務員が対応。2度目の入院ですねと尋ねられ、はいと元気よく返事。病棟内の説明は省略、そのまま病室へ。6人部屋の1056号室(前回は1057号室、隣室だった)。ベッドは、窓際で希望通り。隣のベッドは、防衛大学校の4年生、学生さん。将来、国防の第一線に立つ人材。
10時頃より、主治医から手術の説明。これには家族の同席が必要らしい。
二つの同意書に署名した。手術の同意書と生物製剤の使用同意書。手術の同意書は兎も角、何故に生物製剤使用同意書が必要かと質問すると、薬害肝炎で有名になったフィブリノゲンを止血剤として使用するからですとのこと。献血した血液を媒介にしての感染症のリスクがゼロで無いからですとのこと。同席した母は、少しばかり心配していましたが、情報セキュリティのリスク管理で糧を得ている身としては、リスクがゼロでないとの説明に、然もありなんと思いました。そうなのです、手術を受ける以上はリスクをゼロにできない。ゼロのするためには手術を受けないこと。リスク管理も観点から最もな説明と思ってしまったのは職業病でしょうか。
10:30、地下2階の売店で、入院と手術に必要な物品を購入。浴衣(手術時に着用)、ボディソープ、シャンプー、昆布茶、歯磨きセット、ティッシュペーパー。この売店には、飲食品や日用品、書籍雑誌等の他、自衛隊饅頭、迷彩模様のタオル、防衛医科大学校オリジナルTシャツ、防止など自衛隊グッズも販売しており、退院時に購入しようと決めました。昼食前に母が帰宅。
病室に来る看護婦さん達、殆どが2度目の入院ですねと尋ねてくる。で、入院にあたっての説明は省略。
17:00、シャワー、洗顔、剃髭。
18:00、夕食。その後は、29日の朝食まで絶食。
20時頃、麻酔科の医師による問診と診察
21:00、消灯。
2008年11月28日
手術日。予定では、14時から2時間の予定。
6:00、起床。まず、検温と血圧測定、点滴開始。
7:00、水分補給。この後、水分の摂取も禁止。飲まず食わずで、14時まで暇潰し。
13時頃、母と兄嫁着、14時頃に女房殿着。前の手術が伸びているとのこと。看護婦さんが呼びに来るまで、ベッドで待機。
15:20、手術準備完了とのことで、病棟の看護婦さん、看護実習の防衛医科大学校病院付属高等看護学校の生徒さんと病棟2階の手術室へ向かう。
手術部は、ステンレス製の2メート四方の2枚の扉で仕切られている。扉が開く、手術部の控え室、ここで病棟の看護婦さんから手術部の看護婦さんに身柄が引き渡される。手術部の看護婦さん、雰囲気が違います。
手術部は、50メートル程度の横長の建物で、手術室が幾つか並んでいる。ドラマのように手術室前の廊下で、家族が手術の終わりを今か今かと待っている、という情景でない。複数の手術室で、定められた計画に従って、予定された手術が淡々と執行されている。とても不思議な光景でした。病棟の看護婦さんとは違い、滅菌された手術着をきた手術部の看護婦さんや医師が行きかっていて、同じ病院内とは思えず・・・・
控え室のモニターには、当日の手術予定と執行状況が映し出されており、ここで自分の手術室を確認。
手術台に横たわると、看護婦さんにあっという間に身包みをはがされ、身体にシーツとタオルケットをかけられる。また、麻酔科の医師により、心電図のセンサーや血圧計などが素早くセットされる。口には酸素マスクが装着され、大きく深呼吸をするように支持される。その内、麻酔薬を注入するために左腕に点滴用の注射針が刺される。
麻酔科の医師が、そろそろ眠くなりますと一言。ハイと返事をした後、直ぐ後の記憶が全くなし。
(以後は意識が無いので、以後は後から聞いた話)
20:30、病室に帰還。2時間の予定を大幅に超過して、5時間近くかかったのこと。手術の終わりを待っていた母と兄嫁、我が女房殿は一旦帰宅し、夕食を済ませてから再度病院に来たとのこと。内耳の炎症が予想以上に広範囲で、内耳内の骨の一部にも影響があり、大変な手術であったとのこと。出血も予想外の量だったそうです。病室での記憶は虚ろです。
2008年11月29日
6:00、看護婦さんが声をかけてくれました。全身麻酔の影響なのか、身体全体が何となくだるい。左腕には点滴、股間には導尿管。この導尿管、違和感があってどうしようもない。検温したら、37.5度だった。しかし、頭痛はなし
看護婦さんが、まず水を飲むように指示。これは、術後の経過確認の正式な手順のようで、水が飲めれば、経過確認の第一段階をクリアであるとのこと。前日の7時以後、水分補給をしていないので、待望の水です。空腹でもあるのだが、食事より水が飲みたかったですね。飢えより渇きです。
その後、看護婦さんの許可を貰い、パジャマに着替え。しかし、導尿管はそのまま。邪魔です。
洗顔したいと看護婦さんにお願い。それでは、洗面所まで歩きましょうと、介添え。歩いている途中で、眩暈がないか確認。これも、定められた術後確認の手順だそうです。幸い、眩暈はありませんでした。
洗面後、トイレで導尿管を外してもらう。こういう時は、ベテランの看護婦さんが希望だが、20代の若い看護婦さんで、とても恥ずかしかった。あとで、我が女房殿に話したら、看護婦さんは慣れっこだから、恥ずかしがっても意味ないと、軽くあしらわれました。
7:00、抗生剤の点滴投与開始。所要時間は、8時間程度のこと。これが、長かったです。行動が制限されますからね。
7:50、朝食。お粥だろうと予想していたが、常食だった。朝食後は、ベッドで一眠り。
9:30、朝の診察。主治医ではないが、手術には立ち会ったとのこと。大変な手術でした、言われた。この台詞、その後度々聞かされることになる。
15:00、叔母と母が相次いで、見舞いにきた。傷口の痛みは全く無し。麻酔が、まだ効いているのでしょうか。
15:30、叔母帰宅、入れ替わるように我が女房殿到着。昨晩の様子など聞かせてくれる。主治医からは、手術は概ね成功であったとの話があったらしい。
17:00頃、母と女房殿の二人が帰宅、18:00に夕食。
2008年11月30日
6:00、起床。検温をしてから、ジャージとTシャツに着替え。一日中パジャマで過ごすことはせず、必ず着替えることにしている。これは、入院中も通常の生活からかけ離れないようにするため。
6:30、髭剃り。身嗜みも気をつけるようにしました。以後、髭剃りは毎日欠かさず実行
7:00、抗生剤の点滴。一時間半程度。
7:50、朝食。
9:30、診察。傷口は良好とのこと。
10:00、看護婦さんに洗髪をしてもらう。合わせて、蒸しタオルで身体も拭いてくれた。
27日の夕方のシャワー以来なので、サッパリした。
12:00、昼食
13:00、母と兄が来る。二人とも、いきなり右目が腫れているという。慌てて鏡を見る。確かに、右目の周辺が充血、腫れてきている。ナースコールで看護婦さんに来てもらう。看護婦さんも目を見て驚いていた。直ぐに当直の医師に連絡。昨日は痛まなかった傷口が痛み出してもきた。痛みは我慢してはいけないと言われていたので、痛み止めを持ってきてもらう。
約10分後、当直医師がベッド脇まできて、右目を診察。耳鼻咽喉科の医師に目のことが判るはずもなく、様子をみることに。
傷の痛みもあり、痛み止めを服用し、ベッドに横になる。母と兄は、帰宅。
15:00頃、我が女房殿到着。右目を見て不思議そうな顔をしていた。手術の後遺症だろうといとも簡単に素人診断。子供の野球の試合の結果など、教えてくれる。次男は、毎日7時半頃の起床で、朝食も摂らずに登校しているとのこと。
洗濯物を持って、夕食前に帰宅。
病室に来る看護婦さん達は、右目の心配をしてくれるが、肝心の右耳については関心が無い様。まるで、眼科に入院した感じです。
18:00、夕食。
21:00、消灯。
02:00頃、傷口の痛みで目が醒める。夜中に申し訳ないが、看護婦さんに痛み止めを持ってきてもらう。服用後、再び睡眠。
2008年12月1日
6:00、起床。検温をしてから、ジャージとTシャツに着替え。
7:50、朝食。
9:30、診察。右耳の傷は、経過良好で特に問題なし。それよりも右目が心配。腫れが酷くなり、目を開けていられない。当直の医師が、翌日の眼科外来での診察を予約。
10:00、看護婦さんに洗髪してもらう。
12:00、昼食。
15時過ぎ、我が女房殿、洗濯したパジャマ、下着など持ってくる。子供たちの話など聞く。夕食前に帰宅。
17時、許可がでたのでシャワーを浴びる。
18時頃、夕食。
20時頃、主治医が病室にて診察。やはり、右目の異常を気にしている。鼻の手術をした場合に目に影響がでることがあるが、耳の手術では考えられないとのこと。
手術結果について、話を聞く。慶応大学医学部のO教授が執刀したそうです。
手術は、出血も多く予想より大変で難しい手術であった。予定した施術は全て行った、おそらく鼓膜の再生は問題なし。
炎症が予想以上に広がっていて、骨の組織の一部に蝕まれていたので、苦労した。そのため、聞こえに関しては、今後の経過で判断。もし、回復していなければ、再手術が必要だが、本人の希望も合わせて判断するとのこと(今回の手術は、自分の希望でばく、あくまで主治医が診察の結果、必要と判断)。
21:00 消灯。予め、痛み止めを貰い、服用しておく
2008年12月2日
6:00 起床。右目のはれは、引いてきた。しかし、皮下の出血が、そのまま。検温
7:50 朝食
9:30 朝の診断。当直の医師に加え、防衛医科大学校の耳鼻科咽喉科の教授も診察。傷口の回復は、良好とのこと。やはり、関心は右目の異常。盛んに首を捻っていた。兎にも角にも眼科の診断待ち。
10:00頃、看護婦さんに洗髪してもらう。
12:00 昼食
14:00 眼科外来より呼び出しがあり、診察を受けるために外来病棟に移動。眼科受け付けて、受診手続。
14:30 視力の検査、異常なし。40分後、眼科の医師の診察。眼球には異常は見られないとのこと。腫れと皮下出血の原因は不明だが、殴られた時の症状に似ている。
手術中に体勢に問題があり、右目が硬いもので圧迫されなかったか聞かれる。全身麻酔で意識がなく、判らないと返答。もし、それが原因なら手術直後、少なくとも11月29日土曜日から症状が現れるのでは、翌々日の午後からだったのか如何と聞き返す。
そうですね、不思議ですねという返事。視力と眼球に異常はないということで、診察終了、病棟に戻る。
15過ぎ、着替えを持って女房殿来る。眼科の診断結果を伝える。
夕食まで暇潰し。
18:00 夕食。
夕食後、臨時の診察。眼科診断結果が、原因不明だが視力と眼球に異常無しとのことで、一件落着。
2008年12月3日
6:00 起床して検温。
7:50 朝食。いつも通り淡々と時間が経過する。目の腫れは、完全に引き、皮下出血のみ。
12:00 昼食
13:00 シャワーを浴びる。
14:00 外出。朝、外出の申請をしておいた。運動不足なので、近くの埼玉県立航空発祥記念公園を2時間ほど散歩した。市立図書館にも寄り、本を借り出す。夢枕 獏さんの陰陽師シリーズを三冊借りた。
18:00 夕食。食後は、借りた本を読む
本日は、訪問者無し。
21:00 消灯
2008年12月4日
6:00 起床して検温。
7:50 朝食。昨日借りた本を読んで過ごす。
12:00 昼食。時間が、極めてスローペースで経過。既に三冊のうち、2冊を読了。
夕食前に主治医の診断。予定より4日早く、12月6日の退院が決まる。早速、実家と女房殿、会社に携帯電話のメールで連絡。
18:00 夕食。
18:30 長男が仕事用のノートPCを持ってくる。退院日変更の連絡の際に、頼んでおいたもの。12月8日からの出社と有給休暇取り消しの申請をメールで行うため。その間、長男は待合室にあるゴルゴ13の単行本を読み耽る。実は、本人はこれが主目的。
有給休暇は、12月10日まで申請していました。そのままにして家で療養するという選択もあるのですが、本年一月の転職で、有給休暇の残日数も心許なく、人事からは無理しないようにとのアドバイスもありましたが、取り消すこととしました。
21:00 消灯
2008年12月5日
6:00 起床して検温。
7:50 朝食。本日も図書館で借りた本を読んだり、テレビを見て過ごす。入院は、暇との戦いです。
今日は、同室の2名が手術日、しかも午前中から。8時頃から、ご本人とご家族、担当の看護婦さん達が準備開始。9時頃、相次いで手術室に向かう。頑張って下さいと声をかけた。しかし、全身麻酔とのことなので、当然手術中は意識が無く、頑張り様がないかも。
11:00 シャワーを浴びる。今回からは、右耳に水を入れない注意することを条件に洗髪も許可される。
12:00 昼食。退院が早まる前は、外出の許可を貰い、一時帰宅するつもりだったが、翌日退院なので、取りやめ。
14:00 手術が終わった、一人が病室に帰還。もう一人の方は、個室に移動。おそらく、雑菌等からに感染防止対策。
18:00 夕食
21:00 消灯
2008年12月6日
6:00 起床と検温
7:50 朝食。食後に退院準備開始。荷物を整理し、布団を畳み、普段着に着替え。
9:00 地下の売店で買い物。お見舞いの返礼用に、自衛隊饅頭詰め合わせを4個購入。単価は千円。その他に、防衛医科大学校Tシャツ、迷彩柄ハンカチ、同ハンドタオルを購入。
9:30 朝の診察。
10:00 病棟の事務職員に退院手続を確認。本日は土曜日なので費用の支払いは、翌週の12月11日以降になるとのこと。入院費用は、約25万円。生保からの入院給付金と健保の高額療養費、特別付加金で賄える筈です。ただし、高額療養費の算定では、入院中の食費は除外。私のように常食であった場合は致し方ないが、医師の指示で食事内容に制限がある場合は、如何なものか。このようなケースでは、食事も治療の一貫と思われるし、この点は少々疑問です。
生保会社に請求する入院給付金請求書添付が必要なので、診断書作成手続を外来棟の受付で行う。
10:20 我が女房殿、車で迎えに来院。荷物を持ち、ナースセンターに挨拶。残念ながら、土曜日なので、人影疎ら。2~3人の人にお礼を言う。手術室に付き添ってくれた看護婦さんと看護学校の生徒さんが居なかったのが心残りでありました。
10:50 自宅着。早速、荷物の片付け。
しかしながら、完治した訳でなく、翌週から定期的な通院が続く。移植した筋膜の生着と聴力の回復を診ていく必要があるからです。
2012年4月22日日曜日
診断結果
と言っても家族が祝ってくれる訳でもなく、一人このBlogを更新しています(笑)。今日は、昼食の後、スポーツクラブに行き、一汗かく予定です。
ところで、昨日は昨年入院した医療機関の脳神経外科で定期の受診日でした。現在は、脳神経外科二ヶ月に一回、国立障害者リハビリテーションセンターの心療内科で同じく二ヶ月一回の針圧を受けています。
私の様に何らかの障害を負った者は、定期的な受診が欠かせません。と言うより必須です。そのことで、日常的な生活を無事に送っていくことができます。
昨日に診察では、まず大腸検査の結果を報告しました。脳神経外科及び心療内科でも、他の医療機関のことも必ず報告することにしています。主治医として何を判断するかは、私に分かりませんので、参考情報として必要と思っています。昨日も、大腸検査で問題が無かったということを、カルテに書き込みをしていました。
今回は改めて確認をしたいことがあり、主治医に尋ねてみました。それは、運転です。京都祇園の事件は、警察の捜査中なので発言は注意が必要なのですが、関心が高いのは事実です。
主治医からは、二年間は運転をしない事を改めて言い渡されました。昨年五月に脳出血を発症したので、明年五月で丸二年間になります。それで、運転解禁ですね。
今年、埼玉県運転免許センターに相談に行ってきました。適性検査を受けたところ、運転は支障がない言われましたが、十分に注意をして欲しいと要請されました。しかし、あくまで要請でした。何故かというと、現在の道路交通法では、私が運転すること差し止めることができないのです。
私も来年五月の運転解禁を楽しみ待つことにしています。
2012年4月21日土曜日
大腸の内視鏡検査を受診
前々日、前日に下剤を服用しました。前々日は少々大目に、前日は何時も通りの便通でした。当日は食事抜きで、水分は何時も通りの摂取しました。11時はクリニックに到着、受付を済ませた後、着替えをしました。
担当の看護婦さんの説明を受け、胃腸を空にする為に二リットルの液状の下剤を二時間に渡って服用しました。
(私は、看護婦さんと看護師さんを明確の役割を分けて考えていま)
私の場合は、前日までに便通があったせいか、当日は逆に苦労しました。
ようやく看護婦さんの確認が終わり、内視鏡検査の順番を待っていました。自分の順番がきたところで、簡単な説明を聞いて、愈々内視鏡検査の開始です。他の方は知りませんが、私の場合は少々苦しかったです。内視鏡が肛門から徐々に大腸内に挿入されているのは、ハッキリと分かりました。担当医が、そろそろヘアピンカーブに差し掛かりますと言ってましたが、ここが一番苦しかったです。
カメラで大腸内を見せてくれたのですが、お蔭様で異常は見られなかったということで一安心です。大腸も綺麗なものでした。あくまで、主観ですが。
私の場合は、昨年の脳出血もあるますので、健康上のリスクに注意が必要です。産業医や健保の健康診断など適宜、活用しようと考えています。今更ながらなのですが、治療より予防です。巷には、人間ドックや健康診断などに懐疑的な意見もあるようですが、私は自分の脳出血とその後の治療とリハビリテーションの経験、費やした費用と時間(個人的に社会的にも)を考えると、反対です。
治療より予防、これが大事です。
2012年4月18日水曜日
ISACAの月例会
以前、私は月例の担当を長く務め、東京支部でも最長不倒記録を樹立しました。そのうち、働きが悪いので首になりましたが、良い思い出となりました。
ここで、改めて月例会の意義について考えてみたい。
ISACAは、CISA、CISM、CGEIT、CRISCを認定していますが、継続教育を義務付けています。これは、専門家としての技量、知識を維持することが必要であるとの方針からです。
CISA継続教育(CPE)プログラムについて
継続専門教育 (CPE: Continuing Professional Education)方針(以下CPE)とは、会員に対して専門家としての技量、知識を維持し、向上することを期待しています。ISACAは毎年一回、その年のCPEのポイントを申告すること義向けています。年に最低20ポイント、三年間で12Oポイント以上が必要になります。
システム監査技術者等の高度情報処理技術者試験等々、情報処理推進機構所管の試験では同様なシステムはありません。しかし、ISACAだけでなく国内の各種の資格や能力検定試験等でもスキルの維持を認定にあるように思われます。
月例会は、現在のところは6月を除き毎月開催されています。これに6月の総会での基調講演をく加えれば、一年間合計で12時間になります。継続教育
従って、開催時間は二時間なので、総会を含めれば一年で合計24時間、これはCPEとして24ポイントとして換算できます。私の経験では、月例会と総会を出席で24ポイントという数字は、それほど難しいものではありませんでした(あくまで、私の経験上ですが)。
この一年で最低20ポイント、三年間で120ポイントが必要な訳で、やはり月例会が会員資格維持に重要な要素であることは間違いありません。
差し出がましい記事ですが、かつての支部役員として、会員の皆さんへのアドバイスです。
2012年4月14日土曜日
他人事ではありません
当Blogは、当該の犯人を追及する場では無いので、具体的な個人名を記載することはしませんが、本人に対しては複雑な思いがあります。
��注
当Blogは、個別的な犯人追求や弾劾等は目的としていませんので、匿名とする場合があります。勿論、周知の公的な目的に適う場合や、逆に該当者の名誉の為になる場合など、適宜判断して実名にすることあります。
私は、昨年五月に脳出血を発病、左側頭葉の出血で脳組織の一部を損傷、後遺症として高次脳機能障害が残りました。そのため、国立障害者リハビリテーションセンターに入院、主に失語症のリハビリを受けていましたが、運転免許に関しては、入院患者で何度も話し合ったあったものです。
高次脳機能障害患者は、結局のところ完治することはない病気を負った訳です。そして、その事を認識した上で、日々生活していくことが必要とされます。従って、主治医の判断を尊重しながら、日常生活と社会生活上の注意事項を守っていかなければなりません。逆に、守っていれば、日常生活も社会生活も送ることが可能でなのです。
入院中、運転免許の事は大きな課題として、入院患者皆で話し合いしたことがありました。何故かというと、罷り間違えば人命に掛かることなので、より慎重に考えなければと言う認識があったからです。
私は、日常生活と社会生活上も運転免許が必須でないということで、リハビリの計画の段階で、自動車の運転は暫く見合わせと言うことになりました。退院後、埼玉県運転免許センターに赴き、相談して来ました。担当者に事情を話し、脳出血の状況とその後の診断とリハビリの経過、服用している薬の説明等をした上で、運転免許適合性検査を受けました。基本的に問題は無いと判断されましたが、引き続き医師の判断を仰ぐこと、免許証番号を控えるので免許の書き換えの際に申告して欲しいと要請されたので、同意してきました。これは、高次脳機能障害患者の当然の義務的行為と考えたからです。
誤解して欲しくないのですが、医師の診断を仰ぎ必要な薬を服用していれば、運転することは可能なのです。ただ、あくまで可能であるだけで絶対的なものでないということも事実です。今回の事件では、医師は自動車の運転を禁止していたと発表しています。今のところ、事件との関係は明らかでありませんが、医師の判断が関連していたとすれば、医師の判断が守られていればと悔やまれます。
貨物のドライバーだったある患者さんは、プロであるだけにかなり悩んでいました。結局、幸いにことに紹介する人もあり、別の仕事の就けることになり、転職していきました。現在、一度取得した運転免許は違反などで取り消し処置がなければ、本人の申告に任されていますが、プロの運転者としての責任感なのだろうと思いました。
私は、主治医として脳神経外科と心療内科、二人の医師の診断を定期的に受けています。おそらく、頻度は兎も角一生のことになります。そして、改めて誤解をして欲しくないのですが、医師の診断を受け必要な薬を呑むことで、日常生活も社会生活も問題なく過ごせます。
高次脳機能障害者は、運転免許など注意を要する事もあるのも事実で、場合によっては運転を控えるなどが求められます。そうした事を認識した上で、社会生活を送っていくことは全く問題がないことも事実なのです。
まとまりの無い文書になりましたが、今回の悲惨な事件で思うことがあったので。
犠牲者の皆様の御冥福を折りのり申し上げます。
合掌
2012年4月5日木曜日
復職が決まりました
ご心配いただいた皆さん、ありがとう御座いました。
2012年4月3日火曜日
復帰/復職に向けて
昨年五月に脳出血を発病と入院を余儀無くされました。自宅から救急病院に入院、CT定位的血腫吸引術と脳出血の治療を受けていました。その後、リハビリ専門の医療機関へ転院しリハビリに精進していました。
九月に退院し、週二回リハビリに通い、後遺症や体力の回復に努めて、通勤に備えました。そして、十二月に勤務先と主治医と相談し、2012年1月から短時間勤務で様子を見ながら、徐々に完全復職を目指すことが決まりました。
この2012年1月から週一回から二回短縮時間勤務で、週二回の通院でのリハビリを並行しながら、軽勤務での執務を開始しました。
二月に引き続きリハビリを並行しながら、勤務回数を週三回に増やし、三月からは短縮勤務ながら週五回に勤務回数を増やしました。リハビリも終了となりました。
明日の2012年4月4日は、主治医との面談です。その上で、問題が無ければ目出度く完全復職の予定です。
勿論、これからも病気の再発に注意をし、決められた薬を風用し、健康に注意をしながらの生活が続くのですが、完全復職の目安が立ち、一安心です。
追々、その間の様子など、投稿したく考えております。
2012年1月25日水曜日
復職に前進しました
とは言っても、完全な復職ではなく、主治医の指示もあり三月末までは短縮勤務なります。一月は週二回、二月は週三回、三月は週五回、何れも短縮時間で仕事をします。
ところで、勤務先が復職プログラムを作成、主治医と相談してくれました。そのプログラム、物凄く評価が高く、内容を検討して頂いた言語聴覚士、作業療養士、臨床心理士の方も甚く関心していました。
一月から三月末までの短縮勤務で問題が発覚しなければ四月一日からは、フルタイムで残業規制を解除され、文字通り完全復職なります。その間は、脳出血の治療を受けた救急病院の脳神経外科と国立障害者リハビリテーションセンター双方で定期的に診断を受けます。復職の件は、脳神経外科の主治医と相談しながら国立障害者リハビリテーションセンターの主治医の判断を仰ぐことになります。
復職とは言いながら制限付きなのですが、兎にも角にもここまで来られた事に感謝です。今後は、二人の主治医に注意されている疲労感が残らないことに気を付けなから、四月の完全な復職を目指します。