2016年9月30日金曜日

退院から丸5年が経過しました。

退院から丸5年が経過しました。

脳出血発症から退院までの経緯
早いもので、平成23930日に国立障害者リハビリテーションセンター(以後NRC)を退院してから丸5年になります。


NRCで、長い時間を暮らしたベッドです。


退院の朝、規則通りに6時に起床して血圧測定、洗顔、朝食、薬の服用、歯磨き、体重測定(これは決められたものでなく、個人的な習慣でした)等、通常の予定をこなしてから、退院準備を行いました。

退院準備は、ロッカーの私物と洗面用具、ジャージや下着、タオル、入院中に購入した書籍雑誌等などの整理と現金の確認で、最後に私服に着替えました。
その後、同じ病棟に入院していた患者さんの病室を訪れて退院の挨拶を行い、同じくナースステーションでお世話になった看護師さん、看護助手に皆さんに挨拶をして、迎えが来るのを待ちました。

突然、脳出血を発病して所沢中病院に担ぎ込まれたのが、2011522日の土曜日。数日間、血圧が下がるのを待ってCT定位的血腫除去術と急性期リハビリテーションの治療後、NRCへ転院し回復期リハビリテーションの開始、外泊許可を貰った週末に突然体調を崩し、救急車で搬送されて所沢中病院に再入院、NRCへ再々転院した後の930日の退院に至りました。
入院期間は132日間、4ヶ月と12日間に及びましたが、家族や親戚、友人、知人のお見舞いを受けたことは、今でも感謝しております。
NRCの同じ病棟で過ごした患者仲間とは現在も交流が続いており、年に一回の食事会を楽しみにしています。



国立障害者リハビリテーションセンター
NRCは、我国におけるリハビリテーションの基幹施設で、併設されている国立障害者リハビリテーションセンター病院、同研究所、同学院で構成されています。


NRCと同じ敷地内には、障害者職業能力開発校の一つである国立職業リハビリテーションもあり、自分が入院している時は、NRCのリハビリと職リハでの職業訓練が同時並行で行われていたと思います。思いますというのは、所沢中央病院に再入院することになり、職リハでの職業訓練を受けられなかったからです。



2020東京パラリンピックの誘致運動
所沢市は、2020東京パラリンピックの開催に向けて、キャンプ地の誘致活動を進めています。その構想の核となるのがNRCです。と言うか、NRCがあるから、誘致活動を始めたのかもしれません。万が一にでも、藤本所沢市長にお会いすることが出来たならば、お尋ねしたいと思います。

所沢市には、NRCの他にも所沢市民体育館、所沢市総合運動場、早稲田大学所沢キャンパス・スポーツ施設など、誘致に必要な施設面での条件は整っています。そこに、近隣自治体の施設も活用すれば、誘致することが可能かもしれません。残っているのは、市民の意志と熱意かもしれません。
身体障害者手帳を持つ者として、パラリンピック・キャンプ地の誘致が実現し、所沢市で調整を行った選手が、東京パラリンピックで躍動する姿を期待したいですね。

37回リハ並木祭
1022日、NRCで「第37回リハ並木祭」が行われます。元患者として、少しでも多くの方が見学して頂けることを希望しています。
関係者による模擬店の他、国立障害者リハビリテーションセンター研究所も公開され、研究の成果を垣間見ることができます。また、国立職業リハビリテーションでは、入所者ご自身の活動の成果も公開されます。
リハビリテーションに関心を持ち、理解を深めていただくためにも、「第37回リハ並木祭」に起こし下さい。


別な角度から。

本人です(笑)
痩せてます。この時に戻らないと(´;ω;`)

病室 

食堂兼談話室 

食事の時は、座席が決められていました。 

ナースステーション 

エレベーターは、フェンスで囲まれていました。最初は驚きましたが、後々に理由が分かりました。 

この廊下を朝食前と昼食後の20分、歩いてました。




2016年9月29日木曜日

警察への要望 - 初めての経験でした

埼玉県某市の少女が誘拐、監禁された事件の初公判が、2016年9月27日にありました。この事件に関しては、生まれて初めて警察に要望を行った経験があります。

2016年3月27日、行方不明になっていた少女が保護されたとの報道が行なわれました。
当該事件では、少女の行方を探すため、当該少女を撮影したVTRが家族の了承の元に埼玉県警警察本部のHPに公開されていました。
事件は、当該少女が自ら公衆電話で連絡を行ったことで救出に至りました。しかし、当該少女のその後に関して、愛知県在住で知人の大学講師の先生から懸念が寄せられました。
それは、県警本部が当該VTRを削除していないのではないか、そのままにしておくと流言飛語がネット上に飛び交い、二次被害に至らないかということでした。

知人は、埼玉県の居住者でないので、県警本部に対処を要望してよいのか分からない、誰か埼玉県の人が問い合わせてくれないかということでありました。

そこで、自分が埼玉県警察本部に当該VTRがHPに掲載されたままであり、二次被害防止のために削除できないか要望を、県警のHPを通じて行いました。確か3月30日の23時ごろであったと記憶しています。

翌日の9時45分頃に、県警本部の広報から電話連絡があり、当該VTRは削除したので確認して欲しいとの話でした。早速、県警本部のHPを閲覧し、削除してあることを確認したと連絡、広報から協力を感謝するとのことでありました。

30日の23時にHPと通じて要望、翌日の9時45分の時点で、当該VTRが削除されていたので、要望の対応としては早かったと考えております(勿論、その前に当該VTRを掲載したままだったのは、問題ですが)。

警察に要望がある場合は、遠慮なくしてみるものがと言うのが、この事件に関して学んだことです。
また、当該事件を自らのこととして、注意を促してくれた知人の大学講師先生の見識に、自分も学んで行きたいと思います。

産経新聞記事
「監視は数週間だけ」寺内被告が初公判で起訴内容一部否認

2016年9月21日水曜日

放射能とワクチン 不安に寄り添う怪しげな「支援者」 - 興味深い記事から

誠に興味深い記事でしたので、リンクさせて頂きます。
ホメオパシー、誕生学、牛乳害悪論、ワクチン害悪論、無介助出産など怪しげな疑似医学、医療否定が蔓延ってます。命を落とした事件もあります。

所沢市内でも、ホメオパシーの会合が開催されているようです。国立障害者リハビリテーションセンターの元患者仲間が、疑似医療にはまり込んでしまい、絶縁状態になってしまいました。皆さん、疑似医療、医療否定に用心しましょう。

放射能とワクチン 不安に寄り添う怪しげな「支援者」

2016年9月19日月曜日

2016横田基地友好祭に行って参りました。

2016横田基地友好祭に行って参りました。入間航空祭は、子供の時から行ったことがあるのですが、友好祭は初めてでした。
入間航空祭との違いは、観客数との違い、開催日が二日間であること等々ありますが、主観的には開放性です。よくそこまで開放したなという感じがしました。それと、観客のマナー。入間航空祭は、禁止されている脚立や三脚を持ち込む写真偏愛家、レジャーシートで場所取りする輩など昔と比べて、マナーが落ちてますね。
横田友好祭に関しては、そのようなマナー違反は少なかったです(残念ながらゼロでは無かったですが)。
横田基地に関しては、その歴史やベトナム戦争との関わりなどを含めて後日、Blogに掲載しよと思います。

2016年9月13日火曜日

西武所沢車両工場の想い出

西武所沢車両工場の想い出

所沢市の長年の課題であった、西武所沢車両工場跡地の再開発が進んでいます。古い建屋等は既に解体され、高層マンションや商業施設の建設に向けて、建設工事が着々と進行しています。
西武所沢車両工場は東住吉ですが、自分は直ぐ近くの西住吉で生まれ育ちました。したがって、同工場が再開発で変貌していくことに、期待と寂しさがないまぜになったものを感じています。

住吉地区は、住吉と東住吉、西住吉、南住吉の4町内会となっていますが、かつては「住吉」として単独の町内会でした。現在は、4町が町内会館を「住吉会館」として合同利用しています。


この度は、この再開発事業に関して、雑文を掲載させていただきます。

県道337号線から、西武所沢車両工場跡地を望んだ風景


西武所沢車両工場と 株式会社復興社

子供の頃、東住吉や西住吉に住まう古老達は、西武所沢車両工場を一様に「復興社」と呼んでいました。これは、1961年まで、同工場の事業所名が「株式会社復興社」であったことに所以があります。同年、「株式会社復興社」が「西武建設所沢車両工場」に改称された後も、古老達は引き続き復興社と呼び習わし、近所の住民たちも同様でした。自分も、同工場が「復興社」と呼ばれていることに特段の違和感はありませんでしたが、車両工場と短縮して呼ぶこともありました。

「西武建設所沢車両工場」は、昭和48年(1973年)に西武鉄道に移管、西武所沢車両工場となるのですが、民間の鉄道会社が自前で鉄道車両の製造と整備まで行なう、国内でも珍しい事業所でした。同様な事業を行なっていたのは、東急グループだけで、他社は日本国有鉄道か東急の関連会社である東急車輛製造、西武所沢車両工場に生産委託を行っていました。
西武所沢車両工場では、通常の旅客用車両の他に、特急用の初代レッドアロー西武5000系、初代・二代のE31系電気機関の製造、整備も行っていました。
また、自社向けだけでなく、中小規模の私鉄から発注を受けて車両の製造を行なっていた、珍しい事業所でした。
しかし、その鉄道車両製造事業も、1999年に9000系車両が納入されたのが最後となりました。寂しいですね。

新造や整備された車両は、工場から所沢駅まで引かれた引き込み線を使っていました。その為、県道337号線を横切りことになるので、車両の移動は深夜に行なわれていたそうです。
今は、車両の製造事業も廃止されたので、その引き込み線も撤去されています。昔、県外の親戚が県道337号線に敷設してある線路を見て、不思議がっていました。地元の人間にとってはありふれた光景でしたが、遮断機もないのに踏切があるのが解せなかったのでしょうね。

車両製造事業からの撤退後、西武鉄道は東急車輛製造に業務を委託しました。その東急車輛製造も、業績悪化のために鉄道関連事業を再編、JR東日本の完全子会社である株式会社総合車両製造所に事業譲渡を行いました。現在は、西武鉄道が使用する車両は、同社で製造されています。

西武池袋線秋津駅とJR東日本新秋津駅は連絡線で接続されており、株式会社総合車両製造所で製造された車両は、この連絡線を経由して輸送されています。また、車両の保守管理業務は、西武鉄道武蔵丘車両検修場で行なわれています。

旧西武所沢車両工場正門付近

内田屋鳥肉店

車両工場の近くで営業されていたのが、内田屋鳥肉店。胡椒の利いたコロッケと串かつが名物でした。近所ということもあり、母親から買いに行かされましたが、好物であったこともあり、喜んで行ったものです。自分は三人兄弟ですが、内田鳥肉店さんのコロッケと串カツで育ったと言っても過言ではありません。お世話になりました。

子供の頃の記憶として、鮮明に覚えていることがあります。お昼ごろに内田屋さんに行くと、工場に勤務されている方が、コロッケや串カツを買いに来ていました。皆さんは、コロッケや串かカツを注文すると、弁当箱を取り出してご飯の上に載せて貰います。内田屋の女将さんは、それにキャベツの千切りを添え、ウスターソースを掛けてあげるんですが、お店のサービスなんですね。中には、白米だけの弁当箱を持参した方も居られました。
我が家は自営業だったこともあり、忙しい時期は内田屋さんのコロッケと串かつが、昼食や夕飯のおかずであったことが度々です。当時はファミレス・レストランなどありませんから、十分に満足していました。何よりも美味しかったので。

大人になると、鶏皮の煮付けが酒肴になりましたが()。これが、絶品なんです。ビールに合って、最高の取り合わせでした。


内田鳥肉店さん、5年ほどの前に突然店じまいをされました。風の便りでは、店主さんの健康上の問題と聞きました。残念なことですね。

旧内田屋鶏肉店。移転前の、伝説の三角スワンもありました。


車両工場見学

通学していたのは、所沢市立南小学校。西武所沢車両工場は、直ぐ近くです。当然のこととして、工場見学にいきました。社員の方に案内していただき、工場内を廻り、製造中や整備中の車両を見学しました。

閑話休題

南小学校には、偉大なる大先輩が居られます。その方のお名前は、全国的に有名な角田隆之氏。芸能界で大活躍されています。芸名は、所ジョージ氏と名乗っておられます。


ボーイスカウト所沢第一団 - サマーキャンプの集合場所

小学生のころ、ボーイスカウトの活動に参加していました。加入していたのは、日本ボーイスカウト連盟所沢第一団。現在は小手指に移転しましたが、当時は星の宮にあったカトリック教会の敷地内に拠点がありました。
夏休みになると、サマーキャンプが開催されるのですが、集合場所が車両工場でした。父兄の方が同工場に勤務されており、集合場所として利用させていただきました。


これは確たる記憶ではないのですが、小学校の行事でも集合場所として利用した記憶があります。

旧西武所沢車両工場正門付近


朝日ヘリコプター株式会社

西武所沢車両工場には、ヘリポートがありました。実は、同工場の敷地にヘリポートと整備工場が同居していました。昔は、そのヘリポートからヘリコプターが発着するのが、日常のありふれた風景でした。
南小の小学生は、南小学校入口交差点にある住吉歩道橋で、ヘリの発着を飽きることなく見学
するのが楽しみの一つでしたね。

そのヘリポートに関連して、航空機事故が発生したことを覚えています。同工場のヘリポートから飛び立ったヘリコプターが、東住吉の住宅近くに墜落するという、戦後所沢史上最初で最後の航空機事故です。
同ヘリポートに発着するヘリコプターは、住宅地に近いこともあり、垂直に上昇してから水平飛行に遷移していました。しかし、この時は何時になく低空で水平飛行に遷移していました。自分は、自宅の庭で遊んでいたのですが、低空で飛行するヘリに驚きました。子供にも分かるほど、異常は飛行だったということですね。

大きな物音がしたので、野次馬根性丸出しで現場を見に行くと、墜落したヘリコプターが横たわっていました。消防車、救急車だけでなく、警察の車両も複数、駆けつけてきました。不思議だったのは、自衛隊のジープが見られたことです。これは、後で分かったのですが、ヘリコプターが墜落した場所は、航空自衛隊の高級将校の官舎だったのです。それで、自衛隊関係者が事故の様子を確認するために来た訳です。
高校生のころ、通学時に迎えの車両に乗り込む、自衛隊高官の姿を度々見かけました。制服姿も凛々しく、迎えの自衛隊員が開けた自動車の後部座席に乗り込むその姿は、国防に勤しむ防人の頼もしさを感じたものです。

閑話休題
某政党に言わせると、防衛予算は人殺し予算ですね。野党第一党は、自衛隊・日米安保容認のはずですが、何故か参院選では選挙協力を行いました。これ、矛盾していますね。だから、野合連合と言われて、選挙に敗北したのです。
(敗北と捉えてない某政党、一部勢力は認めませんがね)


昭和52(1977)、朝日ヘリコプターは市外に移転したので、ヘリコプターが車両工場上空を上昇、着陸することも無くなりましたが、かつての所沢市の一風景でした。


ジャズ喫茶スワン

その墜落現場の近くにあったのが、ジャズ喫茶の名店スワン。車両工場正門の直ぐ近くでした。現在は新所沢に移転しましたが、近所では三角スワンと呼ばれていました。

スワンでも、忘れ難き思い出があります。それは、高校二年生の時で帰宅途上のこと、何とスワンが複数の警察官に取り囲まれていました。何が起こったのかと訝しみながら帰宅しようとすると、一人の警察官に呼び止められました。行き先と住所を聞かれたので正直に答えたところ、気をつけて帰るように言われました。そこで、何が起きたのかと尋ねてみたのですが、差し障りのない範囲で(だと思います)、教えてくれました。スワンで新左翼過激派の内ゲバがあり、店内で抗争事件が発生、襲撃者や襲われた側も逃走したので警戒中とのことでした。
当時は、中核派や革マル派、解放派、共産主義者同盟諸派などの新左翼過激派による内ゲバ抗争の終末期で、多くの死傷者が発生していました。巻き添えて犠牲なった市民もいた程です。新聞やTVニュースで、内ゲバ事件が盛んに報道されていました。自分の、左翼嫌いの遠因かもしれません。

閑話休題
若い方とっては、新左翼過激派と言っても分かりませんね。最近、解散して話題となったSEALDsなる集団のデモの中に見るからに60歳代以上と思われる昔の若者(笑)がいましたが、恐らく彼ら彼女らは新左翼過激派活動家の残党、もしくはシンパでしょうね。
年齢は違っても、その思考は変わりません。独善的、教条主義的で空理空論を弄するところは、全く変わりません。

そのスワン、大人が行く所という認識がありました。初めて行ったのは、大学一年生19歳の時です。既に社会にでていた同級生に誘われて行ったのですが、これで大人の仲間入りだと感激したものです。
入り口のドアを開け、三段ほどの階段を下ると幾つかのテーブルが用意されいました。たしか、カウンターもあった記憶しています。そこで、大学生になったばかりの若造が(まだ、未成年ですからね。文字通り、若造でした)、一丁前にウイスキーなどを注文していました。碌に味もわからないのに。

最近知ったのですが、二歳年下の知人女性は、高校生の時からスワンに出入していたそうです。随分と早熟な高校生ですね。負けました(笑)


その後、スワンは新所沢に移転、その跡地に内田屋鳥肉店さんが移転しました。記述のように、その内田屋さんも5年前に廃業。寂しいものですね。


鍛冶屋さん

車両工場前の県道337号線を渡り、大踏切の近くに鍛冶屋さんがありました。この鍛冶屋の前で、その作業を飽くことなく見るのも楽しみでしたね。
二人一組で鎌や鍬などを打っていくのですが、その槌捌きが子供心にも見事だした。時たま、休憩に入った鍛冶屋さんが、飴玉をくれることもありました。事前に用意してあったのでしょうね。仕事中の手で、直接渡してくれました。一緒に見学していた友人と喜んでいただいたものです。

衛生観念が過剰に発展した(と自分は思います)、現在の若いお母さん達(ママさん達とお呼び申し上げないといけませんかね)がご覧になると、卒倒する可能性が(笑)。当時は、自分も親も気にしませんでした。


西友所沢駅前店

小学校低学年の時(はっきりとした月日は覚えておりません)、西友所沢駅前店が開店しました。同店の開店は、市の歴史にとっても、大きな出来事であったと考えています。
スーパーマーケットという形態の商業施設が市内で初めて開店したころもあり、開業から暫くは賑やかであったことを記憶しています。その西友所沢駅前店、一時は移転という話もありましたが、売り場を改装して現在に至っています。これからも、営業を継続して欲しいと願っています。
その西友所沢店駅前の屋上に遊戯施設がありました。ゲームや電池駆動の遊具などが用意されており、子供たちは夢中になっていました。その屋上の遊戯施設で最も注目を集めたもの、それが観覧車でした。そう、西友所沢駅前店屋上には、観覧車があったのです。今、同店屋上の観覧車を覚えている市民、どのくらい記憶されているでしょうか。そうですね、年齢的には50代以上でしょうね。

個人的には、同店4階のレストラン、「ぐりーん」が気になります。長い期間、訪れていないのですが、とても気になります。行こうと思うのですが、機会が恵まれずに現在に至っています。


西友所沢駅前店4階の「ぐりーん」


武所沢車両工場の将来

三年後、西武所沢車両工場跡地に32階建ての集合住宅、商業施設、公園などが整備され、西武百貨店所沢店との通路も建設されると聞いています。また、同じく再開発中の東口の商業施設、日本光電も所沢駅東口、南口を通じて接続されることになります。
所沢駅周辺の再開発は長年の課題でしたが、西武グループの不祥事、外資系投資ファンドとの意見相違などがあって、着工が伸び伸びなっていました。それが、ようやく実現の動き出したのですが、思い出深い風景が消えてしまうことに複雑な感情があるのも事実です。しかし、所沢市の発展のためには、良いことだと思います。

ただ、気になることがあります。所沢市は、映画「トトロ」の舞台とされています。しかし、その八国山は、住宅地の開発により、かつての面影はありません。八国山の東京都・東村山市側が都立公園として自然が維持されていることも比較すると、危惧するところ大です。
元の状態に戻せとは言いませんが、現在も狭山丘陵の自然が残っている地域が少なくありません。商業的な発展と同時に、故郷所沢に残された狭山丘陵の素晴らしさを再認識し、その保護活動にも取り組むことも必要と思います。

2016年9月4日日曜日

埼玉県立所沢北高等学校の文化祭 - 北高祭に行って参りました。

昨日、ちょっと厳しく美しい同級生と美人な後輩と一緒に、母校である埼玉県立所沢北高等学校の文化祭に行ってきました。

8月半ばからの天候不順、引き続く台風が心配だったのですが、幸い雨も降ることなく楽しむことが出来ました。

午前中は、健康維持のために続けているスポーツジム(アスリエ)に通い、午後に同級生と後輩と合流。まず、昼食のために山田うどんに行ってきました。

自分の高校時代は、学校に食堂がなかったです。昼食は、弁当か昼休にみ販売されるパン。🍞
問題は、パンなんです。売り切れることがあるんですね。仕方なく、近所の飲食店で済ませるのですが、よく利用したのが山田うどんでした。
昼食を外で食べる事は禁止されてましたが、食欲旺盛な高校生が我慢できる訳はありません。何度怒られても、止めませんでした。

それは、親父の後押しと言うか怒りがあったのが理由です。我が家は自営業でした。母親が弁当用意してくれましたが、家業が忙しい時はそうもいきません。必然的にパン食になるのですが、既述のように売り切れる事がありました。頭に来て、教師に怒られようとも、校外で昼飯を食べると親父に告げたところ、構わない、大いにやれ、責任は取ってやるとの有り難い御言葉でありました。

何故かと言うと、親父なりの考えありました。自営業であれば、母親も仕事で弁当を用意できないこともある、他の高校のように食堂がない、業者のパンも売り切れ、ならば校外で食べるのは致し方ないじゃないか。
それなのに、生徒には我慢させ、教師は昼食を食べてるとは何事か(はい。教師が、校外で食べている姿を何度もみました)。

今にして思います。遺伝なんだな。似たもの親子。短気、共産主義が嫌い、周りが右を向けば逆を見る。親子して高次脳機能障害になり、家族に迷惑をかける。変わりませんね(笑)

ところで、文化祭ですが演劇を拝見しました。感想ですが、難しいえ題材に果敢に挑んいましたね。
感心しました。ただ、あの題材は高校生にはどうかなと。人生経験の無い高校生には、理解できないかもしれません。

高校時代(記憶では2年生の時)、8ミリフィルムで映画制作に挑んだことがあります。クラスのみんなで考えたショートショートのシナリオを繋げたものですが、現在と異なりビデオの無い時代、編集には苦労しました。
撮影して、現像しないと結果が分からないのが大変でした。しかし、高校時代の懐かしい思い出です。
映画を制作した時間は、高校時代で最も充実していたのかもしれません。

高校二年時の生徒手帳

文化祭の看板

飾り付けられた校舎

2016年9月2日金曜日

埼玉県立所沢北高等学校の文化祭 - 北高祭

9月3日と4日は、我が母校である埼玉県立所沢北高等学校の文化祭です。同級生、後輩と顔を出す予定にしています。

埼玉県立所沢北高等学校 北高祭




この時期、高校の文化祭が同日に開催されますね。

埼玉県立所沢高等学校    所高祭   9月3日、4日
埼玉県立所沢西高等学校   西華祭    9月10日、11日
埼玉県立所沢中央高等学校 文化祭   9月10日、11日
埼玉県立所沢商業高等学校 所商祭   9月下旬か10月上旬
埼玉県立芸術総合高等学校 四つ葉祭 9月24日、25日

昔は、北高と所高の文化祭は被ってなかったですね。学生服で、所高の文化祭に行った記憶があります。そこで、堅苦しい制服なんか着てと揶揄されて、俺達は学ランが好きなんだと啖呵を切った覚えがあります(笑)

今、ふと思いました。北高なのか、所北なのか。最近は、所北という言い方が多いようです。北高卒業の長男も、所北と言ってます。二歳年長の兄も北高出身ですが、北高派です。
自分の時代は、校内で所北という言い方は記憶がありません。自分は、これからも北高で貫こうと思います。論より証拠、文化祭の名称は「北高祭」ではないですか(笑)

追伸
兄、自分、長男と北高一家なんです。珍しいかもしれませんね。