2016年9月13日火曜日

西武所沢車両工場の想い出

西武所沢車両工場の想い出

所沢市の長年の課題であった、西武所沢車両工場跡地の再開発が進んでいます。古い建屋等は既に解体され、高層マンションや商業施設の建設に向けて、建設工事が着々と進行しています。
西武所沢車両工場は東住吉ですが、自分は直ぐ近くの西住吉で生まれ育ちました。したがって、同工場が再開発で変貌していくことに、期待と寂しさがないまぜになったものを感じています。

住吉地区は、住吉と東住吉、西住吉、南住吉の4町内会となっていますが、かつては「住吉」として単独の町内会でした。現在は、4町が町内会館を「住吉会館」として合同利用しています。


この度は、この再開発事業に関して、雑文を掲載させていただきます。

県道337号線から、西武所沢車両工場跡地を望んだ風景


西武所沢車両工場と 株式会社復興社

子供の頃、東住吉や西住吉に住まう古老達は、西武所沢車両工場を一様に「復興社」と呼んでいました。これは、1961年まで、同工場の事業所名が「株式会社復興社」であったことに所以があります。同年、「株式会社復興社」が「西武建設所沢車両工場」に改称された後も、古老達は引き続き復興社と呼び習わし、近所の住民たちも同様でした。自分も、同工場が「復興社」と呼ばれていることに特段の違和感はありませんでしたが、車両工場と短縮して呼ぶこともありました。

「西武建設所沢車両工場」は、昭和48年(1973年)に西武鉄道に移管、西武所沢車両工場となるのですが、民間の鉄道会社が自前で鉄道車両の製造と整備まで行なう、国内でも珍しい事業所でした。同様な事業を行なっていたのは、東急グループだけで、他社は日本国有鉄道か東急の関連会社である東急車輛製造、西武所沢車両工場に生産委託を行っていました。
西武所沢車両工場では、通常の旅客用車両の他に、特急用の初代レッドアロー西武5000系、初代・二代のE31系電気機関の製造、整備も行っていました。
また、自社向けだけでなく、中小規模の私鉄から発注を受けて車両の製造を行なっていた、珍しい事業所でした。
しかし、その鉄道車両製造事業も、1999年に9000系車両が納入されたのが最後となりました。寂しいですね。

新造や整備された車両は、工場から所沢駅まで引かれた引き込み線を使っていました。その為、県道337号線を横切りことになるので、車両の移動は深夜に行なわれていたそうです。
今は、車両の製造事業も廃止されたので、その引き込み線も撤去されています。昔、県外の親戚が県道337号線に敷設してある線路を見て、不思議がっていました。地元の人間にとってはありふれた光景でしたが、遮断機もないのに踏切があるのが解せなかったのでしょうね。

車両製造事業からの撤退後、西武鉄道は東急車輛製造に業務を委託しました。その東急車輛製造も、業績悪化のために鉄道関連事業を再編、JR東日本の完全子会社である株式会社総合車両製造所に事業譲渡を行いました。現在は、西武鉄道が使用する車両は、同社で製造されています。

西武池袋線秋津駅とJR東日本新秋津駅は連絡線で接続されており、株式会社総合車両製造所で製造された車両は、この連絡線を経由して輸送されています。また、車両の保守管理業務は、西武鉄道武蔵丘車両検修場で行なわれています。

旧西武所沢車両工場正門付近

内田屋鳥肉店

車両工場の近くで営業されていたのが、内田屋鳥肉店。胡椒の利いたコロッケと串かつが名物でした。近所ということもあり、母親から買いに行かされましたが、好物であったこともあり、喜んで行ったものです。自分は三人兄弟ですが、内田鳥肉店さんのコロッケと串カツで育ったと言っても過言ではありません。お世話になりました。

子供の頃の記憶として、鮮明に覚えていることがあります。お昼ごろに内田屋さんに行くと、工場に勤務されている方が、コロッケや串カツを買いに来ていました。皆さんは、コロッケや串かカツを注文すると、弁当箱を取り出してご飯の上に載せて貰います。内田屋の女将さんは、それにキャベツの千切りを添え、ウスターソースを掛けてあげるんですが、お店のサービスなんですね。中には、白米だけの弁当箱を持参した方も居られました。
我が家は自営業だったこともあり、忙しい時期は内田屋さんのコロッケと串かつが、昼食や夕飯のおかずであったことが度々です。当時はファミレス・レストランなどありませんから、十分に満足していました。何よりも美味しかったので。

大人になると、鶏皮の煮付けが酒肴になりましたが()。これが、絶品なんです。ビールに合って、最高の取り合わせでした。


内田鳥肉店さん、5年ほどの前に突然店じまいをされました。風の便りでは、店主さんの健康上の問題と聞きました。残念なことですね。

旧内田屋鶏肉店。移転前の、伝説の三角スワンもありました。


車両工場見学

通学していたのは、所沢市立南小学校。西武所沢車両工場は、直ぐ近くです。当然のこととして、工場見学にいきました。社員の方に案内していただき、工場内を廻り、製造中や整備中の車両を見学しました。

閑話休題

南小学校には、偉大なる大先輩が居られます。その方のお名前は、全国的に有名な角田隆之氏。芸能界で大活躍されています。芸名は、所ジョージ氏と名乗っておられます。


ボーイスカウト所沢第一団 - サマーキャンプの集合場所

小学生のころ、ボーイスカウトの活動に参加していました。加入していたのは、日本ボーイスカウト連盟所沢第一団。現在は小手指に移転しましたが、当時は星の宮にあったカトリック教会の敷地内に拠点がありました。
夏休みになると、サマーキャンプが開催されるのですが、集合場所が車両工場でした。父兄の方が同工場に勤務されており、集合場所として利用させていただきました。


これは確たる記憶ではないのですが、小学校の行事でも集合場所として利用した記憶があります。

旧西武所沢車両工場正門付近


朝日ヘリコプター株式会社

西武所沢車両工場には、ヘリポートがありました。実は、同工場の敷地にヘリポートと整備工場が同居していました。昔は、そのヘリポートからヘリコプターが発着するのが、日常のありふれた風景でした。
南小の小学生は、南小学校入口交差点にある住吉歩道橋で、ヘリの発着を飽きることなく見学
するのが楽しみの一つでしたね。

そのヘリポートに関連して、航空機事故が発生したことを覚えています。同工場のヘリポートから飛び立ったヘリコプターが、東住吉の住宅近くに墜落するという、戦後所沢史上最初で最後の航空機事故です。
同ヘリポートに発着するヘリコプターは、住宅地に近いこともあり、垂直に上昇してから水平飛行に遷移していました。しかし、この時は何時になく低空で水平飛行に遷移していました。自分は、自宅の庭で遊んでいたのですが、低空で飛行するヘリに驚きました。子供にも分かるほど、異常は飛行だったということですね。

大きな物音がしたので、野次馬根性丸出しで現場を見に行くと、墜落したヘリコプターが横たわっていました。消防車、救急車だけでなく、警察の車両も複数、駆けつけてきました。不思議だったのは、自衛隊のジープが見られたことです。これは、後で分かったのですが、ヘリコプターが墜落した場所は、航空自衛隊の高級将校の官舎だったのです。それで、自衛隊関係者が事故の様子を確認するために来た訳です。
高校生のころ、通学時に迎えの車両に乗り込む、自衛隊高官の姿を度々見かけました。制服姿も凛々しく、迎えの自衛隊員が開けた自動車の後部座席に乗り込むその姿は、国防に勤しむ防人の頼もしさを感じたものです。

閑話休題
某政党に言わせると、防衛予算は人殺し予算ですね。野党第一党は、自衛隊・日米安保容認のはずですが、何故か参院選では選挙協力を行いました。これ、矛盾していますね。だから、野合連合と言われて、選挙に敗北したのです。
(敗北と捉えてない某政党、一部勢力は認めませんがね)


昭和52(1977)、朝日ヘリコプターは市外に移転したので、ヘリコプターが車両工場上空を上昇、着陸することも無くなりましたが、かつての所沢市の一風景でした。


ジャズ喫茶スワン

その墜落現場の近くにあったのが、ジャズ喫茶の名店スワン。車両工場正門の直ぐ近くでした。現在は新所沢に移転しましたが、近所では三角スワンと呼ばれていました。

スワンでも、忘れ難き思い出があります。それは、高校二年生の時で帰宅途上のこと、何とスワンが複数の警察官に取り囲まれていました。何が起こったのかと訝しみながら帰宅しようとすると、一人の警察官に呼び止められました。行き先と住所を聞かれたので正直に答えたところ、気をつけて帰るように言われました。そこで、何が起きたのかと尋ねてみたのですが、差し障りのない範囲で(だと思います)、教えてくれました。スワンで新左翼過激派の内ゲバがあり、店内で抗争事件が発生、襲撃者や襲われた側も逃走したので警戒中とのことでした。
当時は、中核派や革マル派、解放派、共産主義者同盟諸派などの新左翼過激派による内ゲバ抗争の終末期で、多くの死傷者が発生していました。巻き添えて犠牲なった市民もいた程です。新聞やTVニュースで、内ゲバ事件が盛んに報道されていました。自分の、左翼嫌いの遠因かもしれません。

閑話休題
若い方とっては、新左翼過激派と言っても分かりませんね。最近、解散して話題となったSEALDsなる集団のデモの中に見るからに60歳代以上と思われる昔の若者(笑)がいましたが、恐らく彼ら彼女らは新左翼過激派活動家の残党、もしくはシンパでしょうね。
年齢は違っても、その思考は変わりません。独善的、教条主義的で空理空論を弄するところは、全く変わりません。

そのスワン、大人が行く所という認識がありました。初めて行ったのは、大学一年生19歳の時です。既に社会にでていた同級生に誘われて行ったのですが、これで大人の仲間入りだと感激したものです。
入り口のドアを開け、三段ほどの階段を下ると幾つかのテーブルが用意されいました。たしか、カウンターもあった記憶しています。そこで、大学生になったばかりの若造が(まだ、未成年ですからね。文字通り、若造でした)、一丁前にウイスキーなどを注文していました。碌に味もわからないのに。

最近知ったのですが、二歳年下の知人女性は、高校生の時からスワンに出入していたそうです。随分と早熟な高校生ですね。負けました(笑)


その後、スワンは新所沢に移転、その跡地に内田屋鳥肉店さんが移転しました。記述のように、その内田屋さんも5年前に廃業。寂しいものですね。


鍛冶屋さん

車両工場前の県道337号線を渡り、大踏切の近くに鍛冶屋さんがありました。この鍛冶屋の前で、その作業を飽くことなく見るのも楽しみでしたね。
二人一組で鎌や鍬などを打っていくのですが、その槌捌きが子供心にも見事だした。時たま、休憩に入った鍛冶屋さんが、飴玉をくれることもありました。事前に用意してあったのでしょうね。仕事中の手で、直接渡してくれました。一緒に見学していた友人と喜んでいただいたものです。

衛生観念が過剰に発展した(と自分は思います)、現在の若いお母さん達(ママさん達とお呼び申し上げないといけませんかね)がご覧になると、卒倒する可能性が(笑)。当時は、自分も親も気にしませんでした。


西友所沢駅前店

小学校低学年の時(はっきりとした月日は覚えておりません)、西友所沢駅前店が開店しました。同店の開店は、市の歴史にとっても、大きな出来事であったと考えています。
スーパーマーケットという形態の商業施設が市内で初めて開店したころもあり、開業から暫くは賑やかであったことを記憶しています。その西友所沢駅前店、一時は移転という話もありましたが、売り場を改装して現在に至っています。これからも、営業を継続して欲しいと願っています。
その西友所沢店駅前の屋上に遊戯施設がありました。ゲームや電池駆動の遊具などが用意されており、子供たちは夢中になっていました。その屋上の遊戯施設で最も注目を集めたもの、それが観覧車でした。そう、西友所沢駅前店屋上には、観覧車があったのです。今、同店屋上の観覧車を覚えている市民、どのくらい記憶されているでしょうか。そうですね、年齢的には50代以上でしょうね。

個人的には、同店4階のレストラン、「ぐりーん」が気になります。長い期間、訪れていないのですが、とても気になります。行こうと思うのですが、機会が恵まれずに現在に至っています。


西友所沢駅前店4階の「ぐりーん」


武所沢車両工場の将来

三年後、西武所沢車両工場跡地に32階建ての集合住宅、商業施設、公園などが整備され、西武百貨店所沢店との通路も建設されると聞いています。また、同じく再開発中の東口の商業施設、日本光電も所沢駅東口、南口を通じて接続されることになります。
所沢駅周辺の再開発は長年の課題でしたが、西武グループの不祥事、外資系投資ファンドとの意見相違などがあって、着工が伸び伸びなっていました。それが、ようやく実現の動き出したのですが、思い出深い風景が消えてしまうことに複雑な感情があるのも事実です。しかし、所沢市の発展のためには、良いことだと思います。

ただ、気になることがあります。所沢市は、映画「トトロ」の舞台とされています。しかし、その八国山は、住宅地の開発により、かつての面影はありません。八国山の東京都・東村山市側が都立公園として自然が維持されていることも比較すると、危惧するところ大です。
元の状態に戻せとは言いませんが、現在も狭山丘陵の自然が残っている地域が少なくありません。商業的な発展と同時に、故郷所沢に残された狭山丘陵の素晴らしさを再認識し、その保護活動にも取り組むことも必要と思います。

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