2016年12月23日金曜日

天長節

本日は正式には天長節、世間的には天皇誕生日で、今上天皇陛下が昭和八年一二月二十三日に御生誕遊ばれた、誠にお目出度く、国民等しくお祝い申し上げる日です。
皇弥栄

天皇皇后陛下両陛下御真影
天皇皇后両陛下御真影

天皇陛下八十三歳の御生誕日、天候の恵まれ誠に天長節に相応しい日となりました。十二月しては暖かいとなり、三連休の初日ということもあって、行楽に出掛ける方も少なくないと思います。
天長節でありますが、そうした形で多くの国民が余暇を有効に過ごすことも、陛下はお喜びになると思います。何といっても陛下が御望み遊ばされるのは、国民の幸福であり国家の安寧です。
皇室の有り難さを感謝しながら、国民が楽しむことが出来る我が国の佳さを考えることの重要と思います。

また、こうした時間にも警察、消防、海上保安庁、自衛隊は、いざ鎌倉に備えて、訓練と警備警戒態勢にあります。彼らの日頃のご苦労にも、感謝いたします。

天長節に先立って、天皇陛下に於かれた有難くも御言葉を御発表あらせられました。

産経ニュースより


ところで、平成二十八年八月八日に天皇陛下におかれた譲位を御希望をお持ちと御表明遊ばれました。

平成二十八年八月八日
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば


天皇皇后両陛下に於かれたは、数々の御公務、行幸、表敬訪問など御高齢の関わらず、御精励遊ばされており、誠に有難きことであります。しかし、御年齢からくる御支障も避けがたく、御言葉を読みながら、残念ながら従来通りの御公務も御遂行も難しいと感じた次第です。

天皇陛下の御率直な御言葉を伺い、その御叡慮を拝察仕りましたが、御高齢により国民に迷惑を掛けることを御懸念遊ばされていることを切々と表明されておられました。
天皇后陛下、東宮殿下同妃殿下、秋篠宮殿下同妃殿下も御言葉も御誕生に御言葉を発表せられ、天皇陛下の御意向の賛成せられておられることが分かりました。
皇室一体となって、天皇陛下の御意向を実現したいとのお気持の表れと判断しています。

日本国憲法の定めにより、天皇陛下は国政上の権能を有しません。あのお言葉がギリギリの表現であったと思います。

現在、政府の有識者会議が陛下の御譲位に関して、検討を進めています。民進党も「皇位検討委員会」の中間発表をする予定です。どのようになるかは、まだ予断を許しませんが、陛下の御意向が分かった以上、承詔必謹あるのみ、連立与党、野党第一党の民進党も政争の具にすることのないよう、国会議員諸氏の良識に期待します。


2016年12月8日木曜日

真珠湾奇襲から75年

 大本営 陸海軍部発表 十二月八日 六時 帝国陸海軍は本八日未明 西太平洋ニオイテ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ。


平成28128日(2016128日)は、帝國海軍の第一航空艦隊が米合衆国布哇準州(当時、現在布哇州)の真珠湾に在泊していた米太平洋艦隊主力、米陸軍航空軍布哇在駐留航空部隊を急襲、大東亜戦闘(太平洋戦争)の幕開けとなった戦から75周年となる、日本史においても世界史においても、重要な日です。

昭和16128日午前130分(日本時間)、淵田美津雄海軍中佐を総指揮官とする、直掩の零式艦上戦闘機43機、99式艦上爆撃機51機、97式艦上攻撃機89機、合計183機を擁する第一波攻撃部隊が空母6隻を離陸、布哇準州オハフ島真珠湾に向けて飛び立ちました。

現地時間127日午前749分(日本時間128319分)、第一波攻撃部隊が米太平洋艦隊と米陸軍航空基地に到達し、淵田中佐が「全軍突撃セヨ」との無電を全機に打電、総攻撃を命じました。

752分(日本時間128322分)、淵田中佐は「ワレ奇襲ニ成功セリ」と暗号略号「トラ・トラ・トラ」を打電、全軍攻撃開始、真珠湾在泊の艦艇、航空機、施設などを雷撃、空爆、機銃掃射を敢行しました。

現地時間午前854分(日本時間424分)、第二波攻撃隊総指揮官嶋崎重和海軍少佐が直掩の零式艦上戦闘機36機、99式艦上爆撃機81機、97式艦上攻撃機54機、合計171機に全軍突撃を下令、打撃を受けていた米陸海軍部隊に追い打ちを掛けました。

航空部隊による空爆とは別に、5隻の特殊潜航艇、甲標的に乗り込んだ10名の将校下士官により攻撃が実施され、酒巻少尉を除く9名が戦死して二階級特進、9軍神と称されることなりました。

真珠湾奇攻撃により、米太平洋艦隊は戦力の大半を一時的に損失、修理が完了するまで帝國海軍との戦力差に苦慮することなります。しかし、主目的とした米空母は「エンタプライズと」と「レキシントン」真珠湾を出港しており、「サラトガ」「ホーネット」「ヨークタウン」「ワスプ」「レンジャー」は大西洋に配備されおり、帝国海軍の攻撃から免れることとなりました。これが、後のミッドウェイ海戦の勝敗を分けることになりました。

真珠湾奇襲に際しては、軍部と外務省との合意で対米最後通牒は攻撃前に手交することのなっていましたが、幾つかの不手際が重なり(これに関しては、複数の説があります)、結局一時間後となり、米国政府と国民に「真珠湾を忘れるな」、「Remember Pearl Harbor」という憤激を巻き起こし、第二次世界大戦参戦の格好の口実を与えることなりました。それまでは、米国の世論は対日強硬の方向にありましたが、開戦まには至ってません。それが、ルーズベルト米大統領が対日開戦を画策したとの陰謀論に繋がるのです。

以上が、真珠湾奇襲だけに特化した1941128日(布哇時間7日)のあらましです。実は、このことだけを取り上げることは、歴史を考える上で諌めなければなりません。それは、大きな戦というものは、その前に生起した様々な歴史的事象の集合体であり、それまでの経緯を知らずして、もしくは正しく理解せずに考察することは、甚だ危険なことです。
この度、安倍晋三総理大臣が、真珠湾奇襲攻撃から75年を経過して、初めて日本の為政者として訪問、慰霊することになったのも、その現れだと考えています。

亜細亜おける日米同盟が、欧州の米英関係と並ぶ世界で最も重要な二国間関係と言われながら、日本国総理大臣の真珠湾訪問までに75年の月日がかかったことに、思いを致す必要があると思います。

この度の布哇訪問に関しては、左右から賛成反対の声が上がっています。曰く、遅すぎる、慰安婦への謝罪が先だ、亜細亜諸国への謝罪が不十分、真珠湾奇襲はルーズベルト米大統領に嵌められた云々。

ネット界隈でも、妄想の世界でも楽しんで頂きたい方々の投稿が相次いでいます。安倍首相、無視しましょう。この度の布哇真珠湾訪問は、オバマ大統領の広島訪問と並び、首相が悲願とする戦後レジーム総決算の一助になることは間違いないと思います。そこで、気になるのが、オバマ大統領との最後の首脳会談で発表されるであろう首相談話です。謝罪するのではなく、未来志向のは談話が表明されることを大いに希望します。

戦闘機部隊の発艦準備中の空母甲板

空母を発艦間近の零式艦上戦闘機


奇襲部隊の攻撃で炎上中の米海軍の戦艦

2016年12月6日火曜日

安倍首相の真珠湾訪問決定

安倍首相の真珠湾訪問が決定しました。昨年の米上下両院における安倍首相の演説、今年5月に行われたオバマ大統領の広島原爆記念公園訪問と演説に続き、戦後政治に残された課題の一つが解消したことになるのでしょうか。そうであって欲しいですね。

日米の同盟関係は、思いだしたくもない暗黒の民主党鳩山・菅政権時代で大きく揺らぎましたが、その後は堅固なものになって来ています。しかし、真珠湾奇襲攻撃は、結果として宣戦布告前の騙し討ちになってしまったこともあり、日本国内閣総理大臣が訪問することが、長年の課題でありました。その機会がようやくにして訪れたということだと解釈しています。

今回の訪問で、日米同盟関係を強固にし、大陸や半島北部の勢力を牽制すると共に、トランプ次期米大統領へ影響を及ぼすことを狙ったのだと思います。

おそらく、左派の報道メディアや日本共産党など野合連合は、非論理的な非難を繰り広げるでしょうが、今回の真珠湾訪問を有意義なものにして欲しいと、安倍首相に大いに期待しています。

安倍晋三首相、26、27両日に米ハワイ訪問へ 真珠湾で慰霊も

2016年12月2日金曜日

ボーイスカウト所沢第一団創立60周年

ボーイスカウト所沢第一団創立60周年
藤本所沢市長のBlogを拝見して、ボーイスカウト所沢第一団が、目出度く創立60周年を迎えたことを知りました。
かくゆう筆者も、南小学校の児童であった時に学級の友人に誘われて、ボーイスカウト所沢第一団の門を叩き、数年間でしたがスカウト活動を経験したことがあります。
この度は、ボーイスカウト所沢第一団創立60周年に際して、拙文をBlogに投稿させて頂きます。

ボーイスカウト運動の創始者、ロバート・ベーデンパウエル卿

ボーイスカウト活動と宗教法人
ボーイスカウト活動は、日本ボーイスカウト連盟の公認の基に、キリスト教会各派(カトリック教会、福音教会、聖公会、モルモン教会、メソジスト教会など)や仏教各派、神道(神社本庁、黒住教)、金光教、世界救世教などの宗教法人傘下の教会や寺院、神社が活動に協力することも珍しくありません。勿論、宗教団体と関係なく運営している団もあり、信仰の有無が絶対的な条件ではありません。

因みに、筆者が在学した大学では、体育会にローバースカウト部、アダルトスカウト部が活動しており、シニアとしてスカウト活動を行い、大学内外で奉仕活動を行っていました。

公益社団法人日本ボーイスカウト連盟

ボーイスカウト所沢第一団とカトリック所沢教会
現在、所沢第一団は北野のスカウト会館を拠点にしていますが、自分が入団した時は、星の宮のカトリック所沢教会で活動していました。カトリック所沢教会の敷地内にスカウト会館があり、日曜日に団員が集まって、様々な活動を行っていました。筆者は自宅が西住吉にあり、星の宮が直ぐ近くだったこともあって、歩いて通っていました。
カトリック所沢教会のウェブサイトによると、その成り立ちは以下のようになっていまが、筆者が入団したのは1971(昭和46年)と記憶しています。

1955年 星の宮に献堂され、ピエール・ローランド神父とユージェン・ジュゲ神父が交互に司牧。
1964年 岡宏神父が着任。所沢教会の多彩な活動の基礎を築く。
1974年 現在の小手指へ移転。現代の幕屋としてプレハブの聖堂と信徒会館が建てられた。

創立60周年ということは、教会の献堂が1955年ですから、翌年には創立されていたのですね。一年で活動を始めたということは、割と早かったと思います。教会の岡先生、記憶しております。温厚な方でしたね。

1974年(昭和49年)、教会は星の宮から小手指に移転、スカウト会館は北野に移動しました。移動に際しては、スカウト会館の建物を解体して移動、組み立て直す方式だったと記憶しています。つまり、新規建築でなく再利用ですね。

所沢第一団は、カトリック所沢教会が拠点でしたから、指導者の多くの方がカトリックの信者でした。また、団員も父兄も教会の信徒の方が目立ちましたね。
夏に千葉県の勝浦でサマーキャンプが行われたことがあったのですが、朝食後にミサが行われ、信徒の団員や付添の父兄は儀式に参加していました。当然、お寺の檀徒や神社の氏子、無宗教の団員もいますが、黙って見学していました。

カトリック所沢教会

ボーイスカウト所沢第一団

閑話休題
筆者は、少々複雑な立場です。一応、長久寺に亡父のお墓があり、伯父のお墓もあります。従って、長久寺の檀徒ということになるのですが、幼稚園の2年間は寿町のこひつじ幼稚園に通園してました。当時、こひつじ幼稚園は緑町と寿町の二ヶ所がありました。自分は、自宅に近かった寿町の園に歩いて通園していました。はい、当時の通園は歩きだったのです。
土曜日が休み、日曜日が通園日で、牧師さんの説教や聖書の話を聞いて育った筈ですが・・・・門前の小僧習わぬ経を読むとはいかなかったようです。

なぜ、キリスト教系の幼稚園に通園したか。それは、こひつじ幼稚園長で牧師でのあったT氏が、両親の仲人でありました。その理由が、分からない。
母は、長野県の小布施町出身(栗と北斎で有名です)なのですが、二代前までは宮司でした。従って、母の実家の仏壇はありません。神棚だけです。

父は長久寺の檀徒、母は宮司の流れ、仲人は牧師。訳が分かりませんね。ただ、宗教に寛容な日本らしくていいかも(笑)

その後、牧師のT氏の息子夫婦が、兄夫婦の仲人を務めて頂きました。親子二代でお世話になりました。兄夫婦が、三人の子供をこひつじ幼稚園に通園させました。当然ですね。

筆者の息子二人は、牛沼にけやき幼稚園でした。理由は色々とあるのですが、自分してはこひつじ幼稚園に行かせたかった、と今でも思います。色々な理由があった、ということでご理解下さい。

サマーキャンプ
数年間のボーイスカウト活動で、最も思い出に残っているのがサマーキャンプです。教会の神父さん、信者の方、一部の父兄の付き添いで、千葉県の勝浦でサマーキャンプを行われ、筆者も参加してきました。
なにせ、学校の友達以外と集団生活を送るのは初めての経験、海無し県に育ったこともあり、全てが新鮮な経験でありました。
ただ、一点だけ悔しい思いをしたことがあります。サマーキャンプの主要な行事として、遠泳を行なうことになっていました。しかし、泳力の審査の結果、メンバーから外されてしまったのです。目標にしていたので、悔しかったですね。

自分は、幼稚園のとき溺れたことがあり、その時の恐怖で泳ぐことができませんでした。小学校の水泳の授業や夏休みの水泳教室で、ひたすら練習していました。このサマーキャンプで、遠泳を泳ぎ切ることが目標だったのです。

募金活動
これ、ボーイスカウト活動では、切っても切れないものですね。何度も何度も街頭に立ちました。最初は、恥ずかしくて声が出せないのです。ただ、段々に大きな声を出せるようになりました。そうすると立ち止まってくれる人が増えてきます。やはり、大きな声で呼び掛けるのは大事ですね。
ボーイスカウトに限らず街頭などでの募金活動を見ると当時を思い出します。

ガールスカウト
自分が活動していた時は、ボーイスカウトは少女の入団を認めていませんでした。現在は、連盟として少女の入団も認めており、団の方針の任されているとのことです。
ある時、募金活動のために教会に集まりました。そこに、見られない集団が現れました。なんと、生まれて初めて見る、ガールスカウトの団体でした。それまで知らされていなかったのですが、共同で募金活動を行なうことが決まっていたそうです。
いやぁ、嬉しいの恥ずかしいの、みんなそわそわ、ひそひそ話がとまりません。こちらは、泥だらけの集団、先方は綺麗な制服をお召しになった令嬢方です。比較するのも失礼というもの。
新所沢、所沢駅、西所沢駅に分かれて募金活動を行ってのですが、大きな声を出すことが出来ず仕舞いでした。

秋津に東星学園という私立中学校・高校がります。この学校のグランドに、付近の団が集まって合同の運動会が開催されたことがありました。その時も、ガールスカウトが参加したことがありました。この時も、女っ気のない集団は、大騒ぎです。他の団に聞いたのですが、普段からガールスカウトと共同で活動しているとのこと。羨ましかったですね。

オーバーナイトハイク
サマーキャンプと並ぶ、所沢第一団の重要行事でした。夜10時頃、飯能駅に集合して、星の宮のスカウト会館まで歩き通す、寒さと耐久力を要する行事でした。
この行事では、父親達の協力が必須です。子供たちにとって、かなりの距離を歩くので付き添いが必要です。また、体力に個人差があるので、歩いている内にバラバラになってしまいます。父親達が、相談しながら団員がはぐれないように、行方不明にならないように、体調を崩さないように付き添ってくれました。一部の父兄は、自動車で周回して、続行が無理と判断した団員を教会まで送っていきます。父兄だけでなく、高校生や大学生になったOBも参加した、一大行事でありました。
教会に帰ると、母親達が暖かい豚汁か饂飩か何かを振る舞ってくれました。このオーバーナイトハイクは、ボーイスカウト所沢第一団挙げての一大行事であったと思います。

兎狩り
場所は忘れましたが、兎狩りに参加したことがあります。これも大きな行事でしたが、参加するのは中学生以上であったと記憶しています。ボーイスカウトの範囲であっても小学6年生は、参加は認められなかった。やはり、生きた兎を狩るという行為は、小学生には無理と判断されたのだと思います。
狩りの方法は、全員で野原を包囲、棒で兎を追い込んで行くのです。兎が仕留めることが出来たら、バーベーキューで食べる予定でしたが、結局は一羽しか(兎は、匹でなくて一羽、二羽と数えます)、仕留められませんでした。
獲物を見ただけで残念ながら賞味することは叶いませんでしたが、それで良かったのかもしれませんね。

閑話休題
兎狩りが行われたのは、ボーイスカウト運動の創始者が、聯合王国のロバート・ベーデン- パウエル卿であることに関係しているのかもしれません。
 兎狩りは、聯合王国の上流階級の嗜みですから、罪悪感もないのでしょうかね。今だったら、決して許されないでしょうね。ママさん達がヒステリー、それを聞きつけたお役所も上や下への大騒ぎ。
しかし、日本でも鷹狩は上層の侍の嗜みであったし、決して奇異な風習ではありません。自分は、この行事に参加できたことを後悔はしていません。良かったと思っています。

行事名は忘れましたが
 こんな行事もありました。3人程度で一組になり、目隠しをされて自動車で移動、そこから地図とコンパスを使って星の宮の教会まで帰ってくるという計画でした。
しかし、自動車から降ろされて目隠しを解いた瞬間に、置いて行かれた場所が分かりました。入間市の宮寺辺り、国道16号線付近でした。なぜ分かったかというと、家族でサマーランドや横田基地に、よく行っていたからなのです。場所は分かっているし、帰り道も知っています。地図もコンパスも使う必要もなく、歩き続けて教会まで辿り付きました。
 今だったら、小学生を置いてきてしまうのですから、とんでもないことですね。保護責任者遺棄に問われかねませんね()

閑話休題
当時、横田基地沿いに二軒のドライブインがあり、三階の屋上から米軍機が見られたんです。小学生の時はベトナム戦争中だったので、戦闘用航空機が横田基地に駐留していました。B-52を見たこともあります。そうした理由で、16号線付近は記憶にあったのです。

クリスマス
カトリック教会です。イエスキリスト誕生日は、当然祝福の日となります。ボーイスカウト所沢第一団でも、クリスマスのお祝いを行いました。当然、ノンアルコールでしが()
信者の方や、団の父兄が準備したお祝いの御馳走で、クリスマスを祝った記憶も残っています。

教会の移転と退団
自分がボーイスカウト活動を行ったのは、実際はほんの数年でありました。理由の一つは、教会の移転です。
星の宮にあったカトリック所沢教会が、小手指に移転することになりました。教会の敷地であったスカウト会館も、解体して北野に移転、団員も新たな拠点で活動することになりました。移転後も、活動は継続していたのですが、退団をすることにしました。

当時の小手指は、現在のように住宅地ではなく、一面が野原でした。ある意味、スカウト活動には絶好の場所なのですが、歩いて通っていた環境から激変して、継続が難しくなりました。家業が自営業なので、両親は日曜日も仕事のことが珍しくなく、自動車での送迎の余裕もありませんでした。
中学校では、小学校から習っていた柔道の練習や試合と重なることもあります。また、並行して山登りも始めていました。そうした理由もあって、退団をさせていただくことになりました。

ボーイスカウト活動に参加して
今にして思えば、ボーイスカウト活動が高校から大学までの登山に繋がったのは間違いありません。そして、その大学の学友達とは、今に至るまで交友が続いており、人生の貴重な財産になったということなのかもしれません。

聞きたいこと
 ボーイスカウト埼玉県連盟のウェブサイトを見ると、所沢市では第一団から第五団までが活動しているようです。自分が活動している時は、第一団まででした。第二団から四団までは欠番なのでしょうか。それとも解散してしまったのか。気になりますね。
 ボーイスカウトのような野外活動が、停滞してしまっているとしたら残念です。少子化、塾通い、ゲームの隆盛など様々な理由があるのでしょうが、ボーイスカウト、ガールスカウトのような野外活動、奉仕活動。無駄ではありません。子供達には経験してみることを、親御さん達にはお子さんに進めて頂けることをお願いしたいです。


2016年11月25日金曜日

第27回所沢シティマラソン(平成28年12月11日)


先日、第27回所沢シティマラソン(2016年12月11日)の書類が送られてきました。
小生も5キロに部に申し込んでいます。昨年は30分を切ること目標にして、何とか達成することができました。今年も昨年同様に30分を切ること、出来れば一秒でも上回ることが目標です。

10数年前、5キロの部を何回か完走したあと、満を持して20キロの部に申し込んがことがあります。その結果は散々、スタート早々に右足に痙攣を起こし、それでも完走を目指して、脚を引き摺りながらも走ったのですが、大会ボランティアの指示で途中棄権を余儀なくされました。非常に悔しい思いです。

完走した知人が羨ましく、途中棄権に至った経緯の言い訳を滔々と語っていたことを覚えています。しかし、言い訳はいけませんね。見苦しいです。

その後も20キロの完走を目指していますが、大病を患ったこともあり大人しくしていました。昨年、5キロの部に申し込み、所沢シティマラソンチャレンジを再開しました。また、FBのグループ、所沢マラソン会に参加して、大会当日に記念撮影をするのを楽しみにしています。

所沢シティマラソンは、例年は12月の第一日曜になのですが、理由は不明ですが今年は第二日曜日に実施されます。
12月第一日曜日は、秋津の名物店である焼き鳥の「野島」の忘年会なのですが、所沢シティマラソンと重なっているため、参加していませんでした。今年は、日程がズレたので参加することにしました。野島の忘年会で楽しんでから、所沢シティマラソンに臨む計画です。

参加者の皆さん、完走と自己記録更新を目指して頑張りましょう。🏃


ゼッケン

所沢シティマラソン


昨年の完走証
ぎりぎり、30分を切りました。

2016年11月22日火曜日

T-33入間川墜落事故から丸17年

今日で、T-33入間川墜落事故から丸17年になりますが、勇敢な自衛官二名が殉職したこの事故のことは、今も鮮明に覚えています。
1999年11月22日、T-33A練習機が航空自衛隊入間基地を離陸、訓練終了後の帰投途中に悲劇が起こりました。

T-33入間川墜落事故
1歳の次男が緊急入院した関係で、休暇を取得した日でした。幼稚園に長男を自動車で迎えに行った日に、停電が発生、所沢市内の信号が止まってしまい一時的に混乱状態になりました。しかし、日本人は凄い。現場の警察官や道路工事にあたっていた民間の交通警備員が、臨機応変に交通整理を行い、混乱が収束しました。
(民間人が交通整理に従事するのは違法行為ですが、埼玉県警は追求しなかったようです)
この事故で航空自衛隊員二名が殉職しました。不幸なことに、二人のパイロットが搭乗するT-33Aに故障が発生、彼らは住宅地への墜落を防ぐために搭乗機を必死に操縦し、何とか入間川河川敷上空までたどり付きましたが、その間に脱出可能高度を過ぎてしまい、落下傘降下を試みましたが地上に激突死してしましました。

当時のマスコミ報道では、パイロットの操縦ミスとして散々自衛隊非難を行っていましたが、事実が判明するにつれて、二人の操縦士の命を掛けた行為に世論は好意的な反応を示し始めました。
以下の文章は、狭山ヶ丘高校の小川義男校長が、勇敢な殉職自衛官のこと授業で取り上げたものです。

自衛官の殉 職

この文章を記述しつつ、二人の搭乗員の崇高な使命感と勇敢な行為に涙が流れるのを禁じえません。

T-33A練習機
入間航空祭で、よく見かけた練習機でした。

2016年11月6日日曜日

明星大学硬式野球、首都大学野球リーグで二度目の一部昇格 - リーグ一部優勝、大学日本一を目指して頑張れ

やりました。母校明星大学の硬式野球部が、首都大学野球連盟秋季リーグ入れ替え戦で城西大学に勝利し、リーグ二度目の一部昇格です。🎉

最初に昇格した時は、一部リーグ戦二位まで躍進したのですが、二部に降格、数回の二部優勝を果たすも入れ替え戦の壁に阻まれていました。

神宮球場を舞台に戦われる東京六大学野球リーグや東都大学野球リーグと比べ、加盟各大学の球場などでリーグ戦が開催される首都大学野球リーグは、地味な印象が拭えません。また、大学野球選手権大会や明治神宮野球大会で、東京六大学と東都の代表校はシードされますが、首都大学野球リーグ代表校は関東予選を勝ち抜く必要があります。条件は厳しいですが、リーグ優勝、大学野球日本一を目指して頑張って欲しいと思います。📣

硬式野球部 秋季リーグ入替戦「勝利」 9季ぶり一部昇格へ!













硬式野球部 秋季リーグ入替戦「勝利」 9季ぶり一部昇格へ!📣

2016年10月5日水曜日

我が母校、明星大学硬式野球部が首都大学野球連盟二部リーグで優勝 - 後輩諸君、一部復帰を目指して頑張れ

この記事は、2016年9月28日付ですが、10月1日のリーグ最終戦(対獨協大学戦)に勝ち、二部優勝を勝ち取りました。後輩たち、頑張りました。おめでとうございます。🎊

大学野球 9季ぶり1部目指す明星大 創部初のプロ選手誕生へも期待


首都大学野球連盟


明星大学硬式野球は、一部に昇格後、いきなりリーグ戦二位になったことがあります。しかし、直ぐに二部に陥落して、現在に至っています。二度目の一部昇格を目指して頑張って貰いたいです。

しかし、自分の学生時代は高校生にも負けていたあの野球部が、変われば変わるものです。一部優勝、大学日本一を目指して頑張れ。

我が大学は、野球部だけでなくスポーツ活動に力をいれることのない風潮でした。少ない予算と恵まれない環境。気の毒てあったと思います。

兄弟が亜細亜大学でしたが、神宮球場に足を運んでいるのを羨ましく思っておりました。次男が明治大学に進学、野球部の応援で神宮に行ったようです。いいですね。母校が、活躍するのは。

現在の母校は、野球部だけでなくスポーツ活動に理解があるようです。まあ、少子化も時代、少しでも宣伝効果があがることを狙っているのでしょうが、それはそれで良いと思います。母校の活性化と活躍、大いに期待をします。

2016年9月30日金曜日

退院から丸5年が経過しました。

退院から丸5年が経過しました。

脳出血発症から退院までの経緯
早いもので、平成23930日に国立障害者リハビリテーションセンター(以後NRC)を退院してから丸5年になります。


NRCで、長い時間を暮らしたベッドです。


退院の朝、規則通りに6時に起床して血圧測定、洗顔、朝食、薬の服用、歯磨き、体重測定(これは決められたものでなく、個人的な習慣でした)等、通常の予定をこなしてから、退院準備を行いました。

退院準備は、ロッカーの私物と洗面用具、ジャージや下着、タオル、入院中に購入した書籍雑誌等などの整理と現金の確認で、最後に私服に着替えました。
その後、同じ病棟に入院していた患者さんの病室を訪れて退院の挨拶を行い、同じくナースステーションでお世話になった看護師さん、看護助手に皆さんに挨拶をして、迎えが来るのを待ちました。

突然、脳出血を発病して所沢中病院に担ぎ込まれたのが、2011522日の土曜日。数日間、血圧が下がるのを待ってCT定位的血腫除去術と急性期リハビリテーションの治療後、NRCへ転院し回復期リハビリテーションの開始、外泊許可を貰った週末に突然体調を崩し、救急車で搬送されて所沢中病院に再入院、NRCへ再々転院した後の930日の退院に至りました。
入院期間は132日間、4ヶ月と12日間に及びましたが、家族や親戚、友人、知人のお見舞いを受けたことは、今でも感謝しております。
NRCの同じ病棟で過ごした患者仲間とは現在も交流が続いており、年に一回の食事会を楽しみにしています。



国立障害者リハビリテーションセンター
NRCは、我国におけるリハビリテーションの基幹施設で、併設されている国立障害者リハビリテーションセンター病院、同研究所、同学院で構成されています。


NRCと同じ敷地内には、障害者職業能力開発校の一つである国立職業リハビリテーションもあり、自分が入院している時は、NRCのリハビリと職リハでの職業訓練が同時並行で行われていたと思います。思いますというのは、所沢中央病院に再入院することになり、職リハでの職業訓練を受けられなかったからです。



2020東京パラリンピックの誘致運動
所沢市は、2020東京パラリンピックの開催に向けて、キャンプ地の誘致活動を進めています。その構想の核となるのがNRCです。と言うか、NRCがあるから、誘致活動を始めたのかもしれません。万が一にでも、藤本所沢市長にお会いすることが出来たならば、お尋ねしたいと思います。

所沢市には、NRCの他にも所沢市民体育館、所沢市総合運動場、早稲田大学所沢キャンパス・スポーツ施設など、誘致に必要な施設面での条件は整っています。そこに、近隣自治体の施設も活用すれば、誘致することが可能かもしれません。残っているのは、市民の意志と熱意かもしれません。
身体障害者手帳を持つ者として、パラリンピック・キャンプ地の誘致が実現し、所沢市で調整を行った選手が、東京パラリンピックで躍動する姿を期待したいですね。

37回リハ並木祭
1022日、NRCで「第37回リハ並木祭」が行われます。元患者として、少しでも多くの方が見学して頂けることを希望しています。
関係者による模擬店の他、国立障害者リハビリテーションセンター研究所も公開され、研究の成果を垣間見ることができます。また、国立職業リハビリテーションでは、入所者ご自身の活動の成果も公開されます。
リハビリテーションに関心を持ち、理解を深めていただくためにも、「第37回リハ並木祭」に起こし下さい。


別な角度から。

本人です(笑)
痩せてます。この時に戻らないと(´;ω;`)

病室 

食堂兼談話室 

食事の時は、座席が決められていました。 

ナースステーション 

エレベーターは、フェンスで囲まれていました。最初は驚きましたが、後々に理由が分かりました。 

この廊下を朝食前と昼食後の20分、歩いてました。




2016年9月29日木曜日

警察への要望 - 初めての経験でした

埼玉県某市の少女が誘拐、監禁された事件の初公判が、2016年9月27日にありました。この事件に関しては、生まれて初めて警察に要望を行った経験があります。

2016年3月27日、行方不明になっていた少女が保護されたとの報道が行なわれました。
当該事件では、少女の行方を探すため、当該少女を撮影したVTRが家族の了承の元に埼玉県警警察本部のHPに公開されていました。
事件は、当該少女が自ら公衆電話で連絡を行ったことで救出に至りました。しかし、当該少女のその後に関して、愛知県在住で知人の大学講師の先生から懸念が寄せられました。
それは、県警本部が当該VTRを削除していないのではないか、そのままにしておくと流言飛語がネット上に飛び交い、二次被害に至らないかということでした。

知人は、埼玉県の居住者でないので、県警本部に対処を要望してよいのか分からない、誰か埼玉県の人が問い合わせてくれないかということでありました。

そこで、自分が埼玉県警察本部に当該VTRがHPに掲載されたままであり、二次被害防止のために削除できないか要望を、県警のHPを通じて行いました。確か3月30日の23時ごろであったと記憶しています。

翌日の9時45分頃に、県警本部の広報から電話連絡があり、当該VTRは削除したので確認して欲しいとの話でした。早速、県警本部のHPを閲覧し、削除してあることを確認したと連絡、広報から協力を感謝するとのことでありました。

30日の23時にHPと通じて要望、翌日の9時45分の時点で、当該VTRが削除されていたので、要望の対応としては早かったと考えております(勿論、その前に当該VTRを掲載したままだったのは、問題ですが)。

警察に要望がある場合は、遠慮なくしてみるものがと言うのが、この事件に関して学んだことです。
また、当該事件を自らのこととして、注意を促してくれた知人の大学講師先生の見識に、自分も学んで行きたいと思います。

産経新聞記事
「監視は数週間だけ」寺内被告が初公判で起訴内容一部否認

2016年9月21日水曜日

放射能とワクチン 不安に寄り添う怪しげな「支援者」 - 興味深い記事から

誠に興味深い記事でしたので、リンクさせて頂きます。
ホメオパシー、誕生学、牛乳害悪論、ワクチン害悪論、無介助出産など怪しげな疑似医学、医療否定が蔓延ってます。命を落とした事件もあります。

所沢市内でも、ホメオパシーの会合が開催されているようです。国立障害者リハビリテーションセンターの元患者仲間が、疑似医療にはまり込んでしまい、絶縁状態になってしまいました。皆さん、疑似医療、医療否定に用心しましょう。

放射能とワクチン 不安に寄り添う怪しげな「支援者」

2016年9月19日月曜日

2016横田基地友好祭に行って参りました。

2016横田基地友好祭に行って参りました。入間航空祭は、子供の時から行ったことがあるのですが、友好祭は初めてでした。
入間航空祭との違いは、観客数との違い、開催日が二日間であること等々ありますが、主観的には開放性です。よくそこまで開放したなという感じがしました。それと、観客のマナー。入間航空祭は、禁止されている脚立や三脚を持ち込む写真偏愛家、レジャーシートで場所取りする輩など昔と比べて、マナーが落ちてますね。
横田友好祭に関しては、そのようなマナー違反は少なかったです(残念ながらゼロでは無かったですが)。
横田基地に関しては、その歴史やベトナム戦争との関わりなどを含めて後日、Blogに掲載しよと思います。

2016年9月13日火曜日

西武所沢車両工場の想い出

西武所沢車両工場の想い出

所沢市の長年の課題であった、西武所沢車両工場跡地の再開発が進んでいます。古い建屋等は既に解体され、高層マンションや商業施設の建設に向けて、建設工事が着々と進行しています。
西武所沢車両工場は東住吉ですが、自分は直ぐ近くの西住吉で生まれ育ちました。したがって、同工場が再開発で変貌していくことに、期待と寂しさがないまぜになったものを感じています。

住吉地区は、住吉と東住吉、西住吉、南住吉の4町内会となっていますが、かつては「住吉」として単独の町内会でした。現在は、4町が町内会館を「住吉会館」として合同利用しています。


この度は、この再開発事業に関して、雑文を掲載させていただきます。

県道337号線から、西武所沢車両工場跡地を望んだ風景


西武所沢車両工場と 株式会社復興社

子供の頃、東住吉や西住吉に住まう古老達は、西武所沢車両工場を一様に「復興社」と呼んでいました。これは、1961年まで、同工場の事業所名が「株式会社復興社」であったことに所以があります。同年、「株式会社復興社」が「西武建設所沢車両工場」に改称された後も、古老達は引き続き復興社と呼び習わし、近所の住民たちも同様でした。自分も、同工場が「復興社」と呼ばれていることに特段の違和感はありませんでしたが、車両工場と短縮して呼ぶこともありました。

「西武建設所沢車両工場」は、昭和48年(1973年)に西武鉄道に移管、西武所沢車両工場となるのですが、民間の鉄道会社が自前で鉄道車両の製造と整備まで行なう、国内でも珍しい事業所でした。同様な事業を行なっていたのは、東急グループだけで、他社は日本国有鉄道か東急の関連会社である東急車輛製造、西武所沢車両工場に生産委託を行っていました。
西武所沢車両工場では、通常の旅客用車両の他に、特急用の初代レッドアロー西武5000系、初代・二代のE31系電気機関の製造、整備も行っていました。
また、自社向けだけでなく、中小規模の私鉄から発注を受けて車両の製造を行なっていた、珍しい事業所でした。
しかし、その鉄道車両製造事業も、1999年に9000系車両が納入されたのが最後となりました。寂しいですね。

新造や整備された車両は、工場から所沢駅まで引かれた引き込み線を使っていました。その為、県道337号線を横切りことになるので、車両の移動は深夜に行なわれていたそうです。
今は、車両の製造事業も廃止されたので、その引き込み線も撤去されています。昔、県外の親戚が県道337号線に敷設してある線路を見て、不思議がっていました。地元の人間にとってはありふれた光景でしたが、遮断機もないのに踏切があるのが解せなかったのでしょうね。

車両製造事業からの撤退後、西武鉄道は東急車輛製造に業務を委託しました。その東急車輛製造も、業績悪化のために鉄道関連事業を再編、JR東日本の完全子会社である株式会社総合車両製造所に事業譲渡を行いました。現在は、西武鉄道が使用する車両は、同社で製造されています。

西武池袋線秋津駅とJR東日本新秋津駅は連絡線で接続されており、株式会社総合車両製造所で製造された車両は、この連絡線を経由して輸送されています。また、車両の保守管理業務は、西武鉄道武蔵丘車両検修場で行なわれています。

旧西武所沢車両工場正門付近

内田屋鳥肉店

車両工場の近くで営業されていたのが、内田屋鳥肉店。胡椒の利いたコロッケと串かつが名物でした。近所ということもあり、母親から買いに行かされましたが、好物であったこともあり、喜んで行ったものです。自分は三人兄弟ですが、内田鳥肉店さんのコロッケと串カツで育ったと言っても過言ではありません。お世話になりました。

子供の頃の記憶として、鮮明に覚えていることがあります。お昼ごろに内田屋さんに行くと、工場に勤務されている方が、コロッケや串カツを買いに来ていました。皆さんは、コロッケや串かカツを注文すると、弁当箱を取り出してご飯の上に載せて貰います。内田屋の女将さんは、それにキャベツの千切りを添え、ウスターソースを掛けてあげるんですが、お店のサービスなんですね。中には、白米だけの弁当箱を持参した方も居られました。
我が家は自営業だったこともあり、忙しい時期は内田屋さんのコロッケと串かつが、昼食や夕飯のおかずであったことが度々です。当時はファミレス・レストランなどありませんから、十分に満足していました。何よりも美味しかったので。

大人になると、鶏皮の煮付けが酒肴になりましたが()。これが、絶品なんです。ビールに合って、最高の取り合わせでした。


内田鳥肉店さん、5年ほどの前に突然店じまいをされました。風の便りでは、店主さんの健康上の問題と聞きました。残念なことですね。

旧内田屋鶏肉店。移転前の、伝説の三角スワンもありました。


車両工場見学

通学していたのは、所沢市立南小学校。西武所沢車両工場は、直ぐ近くです。当然のこととして、工場見学にいきました。社員の方に案内していただき、工場内を廻り、製造中や整備中の車両を見学しました。

閑話休題

南小学校には、偉大なる大先輩が居られます。その方のお名前は、全国的に有名な角田隆之氏。芸能界で大活躍されています。芸名は、所ジョージ氏と名乗っておられます。


ボーイスカウト所沢第一団 - サマーキャンプの集合場所

小学生のころ、ボーイスカウトの活動に参加していました。加入していたのは、日本ボーイスカウト連盟所沢第一団。現在は小手指に移転しましたが、当時は星の宮にあったカトリック教会の敷地内に拠点がありました。
夏休みになると、サマーキャンプが開催されるのですが、集合場所が車両工場でした。父兄の方が同工場に勤務されており、集合場所として利用させていただきました。


これは確たる記憶ではないのですが、小学校の行事でも集合場所として利用した記憶があります。

旧西武所沢車両工場正門付近


朝日ヘリコプター株式会社

西武所沢車両工場には、ヘリポートがありました。実は、同工場の敷地にヘリポートと整備工場が同居していました。昔は、そのヘリポートからヘリコプターが発着するのが、日常のありふれた風景でした。
南小の小学生は、南小学校入口交差点にある住吉歩道橋で、ヘリの発着を飽きることなく見学
するのが楽しみの一つでしたね。

そのヘリポートに関連して、航空機事故が発生したことを覚えています。同工場のヘリポートから飛び立ったヘリコプターが、東住吉の住宅近くに墜落するという、戦後所沢史上最初で最後の航空機事故です。
同ヘリポートに発着するヘリコプターは、住宅地に近いこともあり、垂直に上昇してから水平飛行に遷移していました。しかし、この時は何時になく低空で水平飛行に遷移していました。自分は、自宅の庭で遊んでいたのですが、低空で飛行するヘリに驚きました。子供にも分かるほど、異常は飛行だったということですね。

大きな物音がしたので、野次馬根性丸出しで現場を見に行くと、墜落したヘリコプターが横たわっていました。消防車、救急車だけでなく、警察の車両も複数、駆けつけてきました。不思議だったのは、自衛隊のジープが見られたことです。これは、後で分かったのですが、ヘリコプターが墜落した場所は、航空自衛隊の高級将校の官舎だったのです。それで、自衛隊関係者が事故の様子を確認するために来た訳です。
高校生のころ、通学時に迎えの車両に乗り込む、自衛隊高官の姿を度々見かけました。制服姿も凛々しく、迎えの自衛隊員が開けた自動車の後部座席に乗り込むその姿は、国防に勤しむ防人の頼もしさを感じたものです。

閑話休題
某政党に言わせると、防衛予算は人殺し予算ですね。野党第一党は、自衛隊・日米安保容認のはずですが、何故か参院選では選挙協力を行いました。これ、矛盾していますね。だから、野合連合と言われて、選挙に敗北したのです。
(敗北と捉えてない某政党、一部勢力は認めませんがね)


昭和52(1977)、朝日ヘリコプターは市外に移転したので、ヘリコプターが車両工場上空を上昇、着陸することも無くなりましたが、かつての所沢市の一風景でした。


ジャズ喫茶スワン

その墜落現場の近くにあったのが、ジャズ喫茶の名店スワン。車両工場正門の直ぐ近くでした。現在は新所沢に移転しましたが、近所では三角スワンと呼ばれていました。

スワンでも、忘れ難き思い出があります。それは、高校二年生の時で帰宅途上のこと、何とスワンが複数の警察官に取り囲まれていました。何が起こったのかと訝しみながら帰宅しようとすると、一人の警察官に呼び止められました。行き先と住所を聞かれたので正直に答えたところ、気をつけて帰るように言われました。そこで、何が起きたのかと尋ねてみたのですが、差し障りのない範囲で(だと思います)、教えてくれました。スワンで新左翼過激派の内ゲバがあり、店内で抗争事件が発生、襲撃者や襲われた側も逃走したので警戒中とのことでした。
当時は、中核派や革マル派、解放派、共産主義者同盟諸派などの新左翼過激派による内ゲバ抗争の終末期で、多くの死傷者が発生していました。巻き添えて犠牲なった市民もいた程です。新聞やTVニュースで、内ゲバ事件が盛んに報道されていました。自分の、左翼嫌いの遠因かもしれません。

閑話休題
若い方とっては、新左翼過激派と言っても分かりませんね。最近、解散して話題となったSEALDsなる集団のデモの中に見るからに60歳代以上と思われる昔の若者(笑)がいましたが、恐らく彼ら彼女らは新左翼過激派活動家の残党、もしくはシンパでしょうね。
年齢は違っても、その思考は変わりません。独善的、教条主義的で空理空論を弄するところは、全く変わりません。

そのスワン、大人が行く所という認識がありました。初めて行ったのは、大学一年生19歳の時です。既に社会にでていた同級生に誘われて行ったのですが、これで大人の仲間入りだと感激したものです。
入り口のドアを開け、三段ほどの階段を下ると幾つかのテーブルが用意されいました。たしか、カウンターもあった記憶しています。そこで、大学生になったばかりの若造が(まだ、未成年ですからね。文字通り、若造でした)、一丁前にウイスキーなどを注文していました。碌に味もわからないのに。

最近知ったのですが、二歳年下の知人女性は、高校生の時からスワンに出入していたそうです。随分と早熟な高校生ですね。負けました(笑)


その後、スワンは新所沢に移転、その跡地に内田屋鳥肉店さんが移転しました。記述のように、その内田屋さんも5年前に廃業。寂しいものですね。


鍛冶屋さん

車両工場前の県道337号線を渡り、大踏切の近くに鍛冶屋さんがありました。この鍛冶屋の前で、その作業を飽くことなく見るのも楽しみでしたね。
二人一組で鎌や鍬などを打っていくのですが、その槌捌きが子供心にも見事だした。時たま、休憩に入った鍛冶屋さんが、飴玉をくれることもありました。事前に用意してあったのでしょうね。仕事中の手で、直接渡してくれました。一緒に見学していた友人と喜んでいただいたものです。

衛生観念が過剰に発展した(と自分は思います)、現在の若いお母さん達(ママさん達とお呼び申し上げないといけませんかね)がご覧になると、卒倒する可能性が(笑)。当時は、自分も親も気にしませんでした。


西友所沢駅前店

小学校低学年の時(はっきりとした月日は覚えておりません)、西友所沢駅前店が開店しました。同店の開店は、市の歴史にとっても、大きな出来事であったと考えています。
スーパーマーケットという形態の商業施設が市内で初めて開店したころもあり、開業から暫くは賑やかであったことを記憶しています。その西友所沢駅前店、一時は移転という話もありましたが、売り場を改装して現在に至っています。これからも、営業を継続して欲しいと願っています。
その西友所沢店駅前の屋上に遊戯施設がありました。ゲームや電池駆動の遊具などが用意されており、子供たちは夢中になっていました。その屋上の遊戯施設で最も注目を集めたもの、それが観覧車でした。そう、西友所沢駅前店屋上には、観覧車があったのです。今、同店屋上の観覧車を覚えている市民、どのくらい記憶されているでしょうか。そうですね、年齢的には50代以上でしょうね。

個人的には、同店4階のレストラン、「ぐりーん」が気になります。長い期間、訪れていないのですが、とても気になります。行こうと思うのですが、機会が恵まれずに現在に至っています。


西友所沢駅前店4階の「ぐりーん」


武所沢車両工場の将来

三年後、西武所沢車両工場跡地に32階建ての集合住宅、商業施設、公園などが整備され、西武百貨店所沢店との通路も建設されると聞いています。また、同じく再開発中の東口の商業施設、日本光電も所沢駅東口、南口を通じて接続されることになります。
所沢駅周辺の再開発は長年の課題でしたが、西武グループの不祥事、外資系投資ファンドとの意見相違などがあって、着工が伸び伸びなっていました。それが、ようやく実現の動き出したのですが、思い出深い風景が消えてしまうことに複雑な感情があるのも事実です。しかし、所沢市の発展のためには、良いことだと思います。

ただ、気になることがあります。所沢市は、映画「トトロ」の舞台とされています。しかし、その八国山は、住宅地の開発により、かつての面影はありません。八国山の東京都・東村山市側が都立公園として自然が維持されていることも比較すると、危惧するところ大です。
元の状態に戻せとは言いませんが、現在も狭山丘陵の自然が残っている地域が少なくありません。商業的な発展と同時に、故郷所沢に残された狭山丘陵の素晴らしさを再認識し、その保護活動にも取り組むことも必要と思います。