2013年8月22日木曜日

エンジニアの雑感(2)

下の記事を自分で読みなおして、思い出したことがありました。

エンジニアの雑感

世界で最初に実戦配備されたジェット機は、残念ながら戦争のために開発されたドイツのメッサーシュミット262ですね(以下Me262)。

このMe262は、それまでのレシプロエンジン(プロペラ)による推力から、ジェット推進式エンジンを実用化した、画期的な機体でした。現在から見ると、低速時の推進力が弱い、加速力が弱い、燃費が悪いなど問題がありながら、当時の連合軍のレシプロエンジンの戦闘機、爆撃機にとって脅威であったことは、言うまでもありません。

そのジェットエンジンについて、父親と話をしたことを思い出しました。父は、旧制東京都立航空工業専門学校の発動機工学科の学生だったので、当然レシプロエンジンの知識がり、当人が作図した設計図を見せてもらったことがあります。

その時に言われたのが、ジェットエンジンというものは、そういう理論はあるのは聞いた気がするが、敗戦後にMe262とか英米両国が開発していたジェット推進式の航空機を実際にあったことを知って、驚いたということでした。未来のものと考えていたよです。
しかし、日本海軍もドイツから資料を取り寄せて、兎にも角にも国産初のジェット推進式戦闘機「橘花」の初飛行までは辿り着いていた訳すね。
ただ、日本の当時の工業力では、そこまでが限界でドイツや英米両国のように実戦参加、もしくは実用化間近までは、到達していなかったのが現状でした。

そんな話を、二人でした覚えがあります。遥か昔のことで記憶が定かでないのですが、父の意見では、日本が英米両国を敵に回して戦争を行うには、残念ながら我が国の当時の基本的な技術力、工業力等が決定的に不足していたんだということですね。要は、してはいけない、出来ない戦争を始めてしまったと。

今、零式艦上戦闘五十二型が所沢航空発祥記念館に展示されています。零戦も当初は大いに活躍しましたが、太平洋戦争末期になると連合軍の新鋭戦闘機の性能に敵することができなくなり、戦争全般の戦況悪化もあって、統率の外道である体当たり攻撃に頼らざるをえなくなりました。これは、まさに当時の工業技術力の限界であった証の一つであったんでしょうね。

私は、体当たり攻撃は、統率の外道であったと思っています。しかし、特攻を含め戦死した幾多の英霊には、感謝の念を持っています。誤解されないようにお願いします。



実は、父は旧制東京都立航空工業専門学校を卒業していないのです。在学中に敗戦になり、同校は旧制東京都立理工専門学校に変わっています。それは、進駐軍の命令で日本の航空産業が解体されたからです。通常の技術者の候補者として卒業したそうです。

旧制東京都立航空工業専門学校は、その後は新制東京都立大学工学部、そして首都大学東京と変遷していきました。ただ、本人の意識としては、旧制東京航空高専時代こそ母校だったのだと想像しています。これは、旧制中学、旧制高等学校、旧制実業学校、師範学校、高等師範学校、高等女学校などを、旧制時代を経験した人達に共通しているようです。

以上雑感として

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