ちなみに、伯父は父と同じ旧制筑紫丘中等学校から旧制高等商船学校に進学、同時に海軍の軍籍に編入された海軍予備生徒でした。海軍予備生徒というのは、明治時代に西郷従道農商務卿が発案、英海軍予備員に範を垂れた予備役制度でした。卒業生は、平時には民間の船舶に勤務、戦時には予備士官として召集に応じる義務を負っていました。
今の若い方は、旧制中等学校とか、旧制高等商船学校とか旧制高等工業学校とか、海軍予備員とか言われても分かりませんね。私が小学生の時には、旧制中学校や師範学校を卒業した先生達が現役の教師でした。特に小学校56年生の担任だった先生は、元陸軍伍長で怖かったですよ。1mの長さの竹製の物差しで叩かれました。
その先生と父が戦前世代というこで気が合ってましてね。だから、先生に叩かれたと父に言っても、お前が悪いと言われました。それどころか、先生にこれからも遠慮なく引っ叩いて下さいと言ってましたね。当時は、そんな時代でした。
今の若いママさん達にそんなこと言ったら、偉い騒ぎでしょうな。我々の時代は、親父、お袋、お父さん、お母さんですが、今はママさん、パパさんなんでしょうね。ちなみに、我が家は私の意向でママ、パパは絶対に言わせませんでした。
蛇足ながら
父は、自分と同じ様に我々三兄弟を理工系の道に行かせたかったのは、明らかでした。しかし、兄は経営学部、自分は社会学専攻、弟は経済学部に進学、こんな親不孝な兄弟はいませんね。なにせ、誰一人も亡父の後を継ぎませんでしたからね。
そんな父とは、高次脳機能障害者になったという共通点だけはありますが、何の自慢にもないませんがね。
ちなみに、伯父は旧制高等商船学校に入学したにも関わらず、JALの航空機関士で定年を迎えましたが、その経緯は分かりません。その伯父も父の後に他界、今となっては、話を聞いておけばよかったと後悔してます。
自分は社会人となり、そしてコンピュータの世界に入った訳ですが、ソフトウェアでありますがエンジニアの道に入ったことは、亡父にとっては嬉しかったみたいですね。ときたま、自分が設計した卒業設計の発動機の設計図を見せながら、コンピュータの話を説明させられました。ハードウェアとソフトウェアの違いがありながらも、エンジニアとして共通な思いがあったのかと、今となっては思います。
自分の子供達が将来どうなるのか、考えることがあります。できれば、同じようにエンジニアの道を歩んでくれると良いのだがと思います。これは、某N島短期大学のH田K子先生のようなキャリアデザインという高尚な考えでなく、単なる自分の思いなんですがね。
では、乱文乱筆失礼します。
m(__)m
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