2月1日から同28日までは、情報セキュリティ月間です。同月間に当って、内閣官房長官メッセージが発表されています。情報セキュリティ対策は、国民自ら講じいて欲しいとの内容です。まあ、至極全うな内容ではありました。
国民を守る情報セキュリティサイト
平成25年2月1日 情報セキュリティ月間における内閣官房長官メッセージ
大丈夫? 政府の情報セキュリティ対策(IT Pro)
八国山と焼団子と山田うどんと埼玉西武ライオンズ。 この4つは、自分にとって郷土の象徴です。子供時代の遊び場にしてトトロの舞台と呼ばれている八国山。焼団子と山田うどんは、所沢市民のソウルフード。地元に本境地をおく埼玉西武ライオンズ。 私は、所沢生まれの元情報システムエンジニア。郷土を愛するエンジニアのBlogです。
2013年2月4日月曜日
2013年1月30日水曜日
休暇にしました
昨晩から腹痛と下痢でヘロヘロになってしまい、会社に連絡して午前半休にしました。腹痛程度なら、午前半休で十分なのですが、今回はダメでした。再度会社にメールして、午後も休暇にしました。今も完全じゃないすが、何とか明日には出社できそうです。
頭痛は無いので、風邪やインフルエンザではないのは確実ですが、この腹痛、参りました。ほぼ、一晩トイレに通うはめになり、辛い一日でした。午後は、布団で寝て、ようやく復調の気配が見えて来ました。原因は、何なのかな?

トトロの森二号地の看板
ところで、写真は、埼玉県所沢市にある鳩峯八幡神社近くにあるトトロの森二号地です。自宅から歩いて20分程度の所にあるのですが、森に囲まれた素晴らしい場所です。皆さんも、是非お出で下さい。
トトロの森
頭痛は無いので、風邪やインフルエンザではないのは確実ですが、この腹痛、参りました。ほぼ、一晩トイレに通うはめになり、辛い一日でした。午後は、布団で寝て、ようやく復調の気配が見えて来ました。原因は、何なのかな?
トトロの森二号地の看板
ところで、写真は、埼玉県所沢市にある鳩峯八幡神社近くにあるトトロの森二号地です。自宅から歩いて20分程度の所にあるのですが、森に囲まれた素晴らしい場所です。皆さんも、是非お出で下さい。
トトロの森
2013年1月29日火曜日
「COBIT5 日本語版」公開
IT統制のベストプラクティス、「COBIT5 日本語版」が公開されました。現在は一会員ですが、かつての理事会メンバーとして、普及に一助になればと思います。
日本ITガバナンス協会
しばらく、ISACAの活動も参加していないので、そろそろ何かの活動に貢献しようかと思ってます。ISACA東京支部運営会議メンバー公募の連絡が来たので、考えている最中です。
日本ITガバナンス協会
しばらく、ISACAの活動も参加していないので、そろそろ何かの活動に貢献しようかと思ってます。ISACA東京支部運営会議メンバー公募の連絡が来たので、考えている最中です。
2013年1月28日月曜日
Blog名の変更
2013年1月27日日曜日
零式艦上戦闘機五二型&栄二一型発動機
零式艦上戦闘機五二型機体全景 零式艦上戦闘機五二型右側
零式艦上戦闘機五二型左側 零式艦上戦闘機五二型前面
所沢にある航空発祥記念館で、零式艦上戦闘五二型が期間限定で公開されています。
この零戦は、グアムで米陸軍に鹵獲されたもので、状態が極めて良いのだそうです。機体も貴重ですが、何と言っても栄二一型発動機です。
零式艦上戦闘機五二型展示 2012年12月1日(土)~2013年3月31日(日)
所沢航空発祥記念館
日本の航空技術100年展
零戦は、機体に関しては複数の復元された機体が存在しています。また、設計図を元に新造したロシア製の機体もあります。しかし、発動機も含めた完全オリジナルの機体は、今回展示されているものだけです。
今回の展示が終わった後、機体は米国に戻されます。機体と発動機は、老朽化のため今後は実際に飛行する機会は無くなる可能性があるそうです。
子供の時、航空自衛隊入間基地で毎年11月3日に開催される航空祭に四式戦闘機の飛行があったので、兄と弟、亡父と義理の叔父と見に行ったことがあります。その後の保存が宜しくなく、この機体は飛行不能になったどうです。極めて残念です。
この機体、老朽化のため飛行することは控えるにしても、今後も飛行可能な状態は維持して貰いたいですね。
2012年11月28日水曜日
所沢航空発祥公園に、世界で唯一飛行可能な零戦が到来しました
久し振りの投稿です。で、今日のお題ですが、わが町の話題です。
わが所沢には、航空発祥記念公園にと呼ばれる施設があります。この公園は、大日本帝国陸軍が日本で最初に設置した軍用飛行場でした。戦後は、米軍に接収され米陸軍、空軍の有人施設として使用されていました。
現在は、施設の一部が返還され無人の米空軍基地となっています。市民からは、通称「通信基地」と呼ばれます。
私の母校は、返還された通信基地の跡地に建設され、埼玉県立所沢北高と言います。その他に、基地跡地に建設された施設として、防衛医科大学校、防衛医科大学校附属病院、私が入院生活を送り、今も通院している国立障害者リビリテーションセンターなどがあります。
陸軍所沢飛行場
所沢通信基地
その所沢航空発祥記念公園(航空公園)に、期間限定で零式艦上戦闘機五二型が展示されることにことになりました。
所沢航空発祥記念公園
「日本の航空技術の100年と今後」
この零戦五二型は、サイパンで米軍に捕獲された本物で、しかも発動機も栄二一型搭載です。産経新聞の報道よりますと、老朽化もあり今後が飛行の機会が無くなる可能性もあるとのことです。
私の亡父は、旧制東京都立航空専門学校発動機科卒業でした。父からは、零戦の話は良く聞かされて育ったのです。その関係もあり、今回の零戦の期間限定の展示には、もの凄く興味があります、。航空公園は、自転車で行ける範囲なので、何度も通ってみる積もりです。
零戦組立見学会
わが所沢には、航空発祥記念公園にと呼ばれる施設があります。この公園は、大日本帝国陸軍が日本で最初に設置した軍用飛行場でした。戦後は、米軍に接収され米陸軍、空軍の有人施設として使用されていました。
現在は、施設の一部が返還され無人の米空軍基地となっています。市民からは、通称「通信基地」と呼ばれます。
私の母校は、返還された通信基地の跡地に建設され、埼玉県立所沢北高と言います。その他に、基地跡地に建設された施設として、防衛医科大学校、防衛医科大学校附属病院、私が入院生活を送り、今も通院している国立障害者リビリテーションセンターなどがあります。
陸軍所沢飛行場
所沢通信基地
その所沢航空発祥記念公園(航空公園)に、期間限定で零式艦上戦闘機五二型が展示されることにことになりました。
所沢航空発祥記念公園
「日本の航空技術の100年と今後」
この零戦五二型は、サイパンで米軍に捕獲された本物で、しかも発動機も栄二一型搭載です。産経新聞の報道よりますと、老朽化もあり今後が飛行の機会が無くなる可能性もあるとのことです。
私の亡父は、旧制東京都立航空専門学校発動機科卒業でした。父からは、零戦の話は良く聞かされて育ったのです。その関係もあり、今回の零戦の期間限定の展示には、もの凄く興味があります、。航空公園は、自転車で行ける範囲なので、何度も通ってみる積もりです。
零戦組立見学会
2012年8月19日日曜日
終戦記念日と命日と高次脳機能障害 再掲
操作ミスで、一旦投稿した記事を削除してしまいました。キャッシュから復元しようと試みたのですが、残念ながら断念しました。ただ、思いを込めた記事だったので、改めて投稿する事にしました。
2012年8月15日、終戦記念日でした。天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、また戦没者のご遺族がご出席する中、全国戦没者追悼式が開催されました。8月15日は終戦記念日ですが、私にとって、家族のとっても特別な日です。丁度20年前の1992年8月15日土曜日、父親が肝臓がんで他界しました。例年、8月15日は酷暑だという記憶があるのですが、この日もそうでした。
毎年8月15日は、菩提寺のご住職が実家に来られてお経を挙げて頂くのが慣例です。その慣例が果たせなかったのが、2010年8月15日でご住職が体調を崩された年と2011年8月15日、私が入院していた年です。
父親は肝臓がんを患い、それが病因となって65歳で他界しました。その父が他界する12年前の1980年、脳挫傷の大怪我を負いました。その日は、所用があって母親の実家(長野県)を訪ねた日の出来事、私が大学一年生の時でした。夜(金曜日であったと記憶しています)、叔父から電話があり父親が怪我をしたので、健康保険証を持って急ぎ来て欲しいとのこと。翌日早朝、信越本線を使って長野駅で待ち合わせた叔父を訪ねて行きました。その場で、脳挫傷であること、手術の必要があること聞かされました。長野駅の最寄りにあった長野日赤病院に駆けつけ、担当医の話を聞きました。
担当医の話は、19歳の大学生にとっては衝撃的なものでした。脳内にピンポン玉大の血腫があり命に関わる状態であること、手術の成功の可能性は50%、成功しても言語と計算に障害が残る可能性あることの説明がありました。その上で、手術の同意書に署名して欲しいと言われました。母親と二人なのか、私一人だったのか記憶が確かでないのですが、同意書にサインをしました(私一人で署名した記憶があります)。
結局手術は成功、しかし高次脳機能障害が残りました。計算は日常生活に支障がでることはありませんでした。ただ、失語症で悩まされることとなった訳です。
私は、高血圧症を起因とする脳出血、左側頭葉の脳血腫となり、失語症が残りました。父は頭部外傷、自分は脳血管障害となり、父親と障害の程度は異なりますが、何の因果か同じ失語症に悩まれることとなった訳です。しかし、自分が父親と同じ失語症となり、初めて分かることが多々あります。
失語症なので、言葉が素早く出ないことが少なくありません。特に緊張した場面や、初めて会う人などの場合、どうしても言葉が上手くでません。その事で、職場でも辛い、また悔しい思いをすることがあります。家族や知り合いに申し訳ないと思うこともあります。そして、思うのです。亡き父親も同じであったのだろうと。辛い時、悲しい時、情けない時、時々に思うことがあったのだろうと。
よく親が亡くなってから初めて理解ることがあると言われますね。私は、それに加えて程度の問題はありますが、父親と同じ失語症になったことで、亡き父親の思いが理解できるようになりました。これは、母親にも兄弟にも家族にも判り難いことだと思います。そして、その事を非難する考えもありません。私も、自分自身が高次脳機能障害となり、そこで初めて解ったことですから。
私の病気に関しては、家族にも兄弟にも親類にも友人にも職場の同僚、上司(一部を除く)にも感謝しています。また、迷惑をかけたことを申し訳なく思っています。父親も自分の怪我について、恨みがましいことを言っていた記憶はありませんでした。ただ、自分も同じ失語症になったことで、父親の葛藤が理解出来るようになったということです。そして、自分自身にも同じような葛藤があるということです。
父親の他界から20年、私も症状は軽いとはいえ同じ境遇になり、日々考えることが多くなってきています。考えながらも、前向きな考えでないといけませんね。時として、否定的な思いになることが、正直あります。しかし、病気になってしまったことは事実として受け入れないといけません。否定的にならず、前向きにいこうと思っています。
m(_ _)m
2012年8月15日、終戦記念日でした。天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、また戦没者のご遺族がご出席する中、全国戦没者追悼式が開催されました。8月15日は終戦記念日ですが、私にとって、家族のとっても特別な日です。丁度20年前の1992年8月15日土曜日、父親が肝臓がんで他界しました。例年、8月15日は酷暑だという記憶があるのですが、この日もそうでした。
毎年8月15日は、菩提寺のご住職が実家に来られてお経を挙げて頂くのが慣例です。その慣例が果たせなかったのが、2010年8月15日でご住職が体調を崩された年と2011年8月15日、私が入院していた年です。
父親は肝臓がんを患い、それが病因となって65歳で他界しました。その父が他界する12年前の1980年、脳挫傷の大怪我を負いました。その日は、所用があって母親の実家(長野県)を訪ねた日の出来事、私が大学一年生の時でした。夜(金曜日であったと記憶しています)、叔父から電話があり父親が怪我をしたので、健康保険証を持って急ぎ来て欲しいとのこと。翌日早朝、信越本線を使って長野駅で待ち合わせた叔父を訪ねて行きました。その場で、脳挫傷であること、手術の必要があること聞かされました。長野駅の最寄りにあった長野日赤病院に駆けつけ、担当医の話を聞きました。
担当医の話は、19歳の大学生にとっては衝撃的なものでした。脳内にピンポン玉大の血腫があり命に関わる状態であること、手術の成功の可能性は50%、成功しても言語と計算に障害が残る可能性あることの説明がありました。その上で、手術の同意書に署名して欲しいと言われました。母親と二人なのか、私一人だったのか記憶が確かでないのですが、同意書にサインをしました(私一人で署名した記憶があります)。
結局手術は成功、しかし高次脳機能障害が残りました。計算は日常生活に支障がでることはありませんでした。ただ、失語症で悩まされることとなった訳です。
私は、高血圧症を起因とする脳出血、左側頭葉の脳血腫となり、失語症が残りました。父は頭部外傷、自分は脳血管障害となり、父親と障害の程度は異なりますが、何の因果か同じ失語症に悩まれることとなった訳です。しかし、自分が父親と同じ失語症となり、初めて分かることが多々あります。
失語症なので、言葉が素早く出ないことが少なくありません。特に緊張した場面や、初めて会う人などの場合、どうしても言葉が上手くでません。その事で、職場でも辛い、また悔しい思いをすることがあります。家族や知り合いに申し訳ないと思うこともあります。そして、思うのです。亡き父親も同じであったのだろうと。辛い時、悲しい時、情けない時、時々に思うことがあったのだろうと。
よく親が亡くなってから初めて理解ることがあると言われますね。私は、それに加えて程度の問題はありますが、父親と同じ失語症になったことで、亡き父親の思いが理解できるようになりました。これは、母親にも兄弟にも家族にも判り難いことだと思います。そして、その事を非難する考えもありません。私も、自分自身が高次脳機能障害となり、そこで初めて解ったことですから。
私の病気に関しては、家族にも兄弟にも親類にも友人にも職場の同僚、上司(一部を除く)にも感謝しています。また、迷惑をかけたことを申し訳なく思っています。父親も自分の怪我について、恨みがましいことを言っていた記憶はありませんでした。ただ、自分も同じ失語症になったことで、父親の葛藤が理解出来るようになったということです。そして、自分自身にも同じような葛藤があるということです。
父親の他界から20年、私も症状は軽いとはいえ同じ境遇になり、日々考えることが多くなってきています。考えながらも、前向きな考えでないといけませんね。時として、否定的な思いになることが、正直あります。しかし、病気になってしまったことは事実として受け入れないといけません。否定的にならず、前向きにいこうと思っています。
m(_ _)m
登録:
投稿 (Atom)