2019年3月20日水曜日

『3月20日に思う』


 今日、2019年3月20日は、日本国民が恐れ慄き、世界の指導者や軍事関係者、情報機関関係者、科学者を震撼させた地下鉄サリン事件から24年の月日が流れた。時の流れは、早いものである。
 当時、自分は神奈川県横浜市港北区下田町、慶應義塾大学のグランド近くに住み、東横線で通勤していた。自分は、通勤の電車の中で新聞を読み、始業30分前には勤務先の到着するのが習慣だった(今現在も、始業30分前に自分の机でPCを起動させるのが習慣である)。
 時たま、新聞を自宅に忘れることがあったが、その場合でも敢えて取りに帰ることはなかった。しかし、その日は5分程してから新聞を忘れたことに気が付き、何故かしら自宅に戻った。通勤経路は、日吉駅から東横線中目黒駅で日比谷線に乗り換え、神谷町駅で下車する予定であった。しかし、中目黒駅で放送があり、トンネル内で煙が充満しており、復旧の見込みは不明とのことであった。
仕方なく、そのまま渋谷駅まで行き、銀座線で虎ノ門駅から会社に。
 その時点では、事件の様相は不明であった。当時は、インターネットが普及されておらず、事件の概要が段々と判明してきたのは、午後になってからである。多くの死者、負傷者発生したが、事件の衝撃は日本国内に留まることはなく、化学兵器が実際に使われてしまったということ、しかも怪しげな疑似宗教団体による犯行であったことは、世界の主要国にとっても衝撃的であった。
 自分は、中目黒駅で下車する予定であったが、新聞を取りに帰ってことで事件に巻き込まれずにすんだことになる。犯行グループは、事件を周到に計画していた事は、後々の報道で理解できた。犯人グループは、神谷町駅でサリンを散布したが、先頭から三両目で丁度階段近くで犯行に及んだが、駅を利用する乗客は自分を含めて大変混雑するのである。つまり、犯人グループは、最も犠牲者の多い手段を考えたことは間違いない。
 今も、3月20日なると考える。何故、あの日に限って新聞を取りに戻ったのか。戻らなければ、事件に巻き込まれ、命がなかったか、後遺症で苦しんでいた可能性が高い。当時、長男がお腹の中にいた。自分が事件に巻き込まれ、命を落としたか後遺症を残したとしたとしたら、次男が誕生したのだろうか。
 時折、夫婦で話題になる。何故、新聞を取りに戻ったのか。戻らなかったら、どうなっていたのかと。
 オウム真理教によるサリン事件は、平成の時代を揺るがす大事件であった。その平成が、4月30日を以って終止符を打ち、新帝陛下のもとで新たな御代を迎える。
新たな御代が、平穏で幸多き時代であることを祈る。

2019年1月3日木曜日

『新年一般参賀」

『一般参賀』
本日は、平成最後の新年一般参賀に赴いた。昨年も、新年一般参賀に行ったが、今日は昨年以上の人々が皇居に集まった。
午前中の参賀に間に合うようにとを自宅を出たが、大手町駅から既に長蛇の列。午前中は、天皇皇后両陛下、皇太子殿下妃殿下、秋篠宮殿下妃殿下、眞子内親王殿、佳子内親王殿下の御召には間に合わなかった。しかし、13時半の御召にまで頑張ろうとしていると放送があり、13時に追加の御召があると発表された。思わず陛下のご配慮と呟いたところ、隣にいた二人のご婦人が「その通りですね。有り難いことです」と賛意を示してくれた。
13時、天皇皇后両陛下、皇太子殿下妃殿下、皇族方がお見えになったところ、万歳三唱が轟いた。当然、自分も陛下の万歳を三唱した。ああ~、日本人に生まれて良かっという喜びを感じた一瞬であったと言っても、決して過言でない。
陛下のお言葉を聞いた時、思わず涙が零れ落ちることを禁じ得なかった。天皇陛下皇后陛下、長い間臣民のためにご苦労されました。謹んで御礼を申し上げます。
陛下は、大元帥陛下たる昭和天皇陛下から新たなる皇室のあり方を模索されておられた。その姿に、多くの国民が敬意の念と懐いております。陛下、ご譲位の後は、お健やかにお過ごし下さい。それが、多くの国民が欲するところであります。
天皇皇后両陛下、万歳。
















2018年11月8日木曜日

「緊急入院から一年」


2017年11月8日、所沢駅から防衛医科大学校付属病院に緊急搬送されてから、早いもので一年の月日が流れた。


帰宅途上、東京地下鉄丸ノ内線内で失認症の症状に襲われ、なんとか所沢駅まで辿り着いたものの、右手の麻痺と完全な失語状態に陥った。駅員さんに通勤鞄に入れていた身体障害者手帳とお薬手帳等を見せ、加えて身振り手振りで救急車を呼ぶようにお願いした。この時点で文字の判読が出来ず、どうしようもない恐怖感に襲われていた。幸い、駅員さんが事態を察し、救急車を手配していただくことができ、病院に緊急搬送された。実は、救急車に運び込まれる直前までの記憶は残っているが、気がついた時には病院の救命救急センターのベッドの中であった。

当初は、全く事態が飲み込めなかった。また発語も出来ず、ERの看護婦さんに質問することも叶わなかった。そこで、看護婦さんに事態を説明してもらいたいと考え、頭の中で五十音の暗唱を始めて、次にアルファベット、家族の名前、住所、勤務先の名称などを必死に思い出していた。しかし、どうしても発語することが叶わず、意識が遠のいていた。

次に意識が戻ったときには救急車の中。防衛医科大学病院から所沢中央病院に搬送される途中であった。そう、この時から発語が少しずつ可能になり、何が起きたのか徐々に理解可能になっていたと思う。
搬送先の所沢中央病院で、主治医である脳神経外科で院長のK医師が出迎えてくれた。ここから、徐々に記憶がはっきりしてきた。4人部屋に運ばれて、一眠り。その間、家族から連絡を受けた兄嫁が病院に様子を見に来たくれたとのことだが、申し訳ないか記憶がない。時計がなかったので正確な時刻が分からなかったが、記憶が回復してきたのは、お昼頃ではないかと思われる。そして、徐々に会話も可能になった。そこで、看護婦さんにお願いした。尿道カテーテルを抜いてほしいと。意識が回復してきたことが確認できたのだろうか、直ぐに処置してくれた。ああ、これで歩き回ることができる、開放感に浸ったことを覚えている。
意識がほぼ完全に回復したのは、思ったより早かったと思う。搬送された日の夕方からは、病棟内を歩き始めた。これは、前回入院時の経験から歩くという行為が殊の外、病状の回復に効果があるということがわかっていたから。
リハビリテーションも始まった。午前午後に、10分程度の散歩も始めた。家族に頼んで、ジャージとスマホ、タブレットを持ってきてもらった。一刻も早く、勤務先に連絡を取る必要があった。焦っていけないと用心したが、日常生活、仕事への復帰へ準備も始めた。これも、前回の入院で学んだこと。入院中は、だらしない生活を送ってはいけない。

緊急入院したことは、数日後にFacebook、LINEなどのソーシャルメディア等で友人、知人に報告した。多くの皆さんから激励とお見舞いのメッセージを頂いた。直接、病院まで訪ねてきてくれた方々もおられる。これは、本当に本当に有り難いこと。皆さんの応援に勇気つけられた。

退院したのは、11月22日(水)。同月24日(金)、鴻巣の運転免許センターに行き、事情を話して自動車運転の適性検査を受けた。もし、否とされたら免許の返上も覚悟していたが、幸いに合格。しかし、その後も長距離の運転は控え、極力徒歩か自転車の使用を励行している。

あれから一年を経過したが、心配した再発もせずに暮らしている。皆さんに、あらためて感謝申し上げる。
また、緊急時に対応して頂いた西武鉄道所沢駅職員の皆さん、埼玉西部消防局の皆さんにも、感謝の気持ちを捧げたい。
私、増田聖一は元気に暮らしています。
m (_ _)m

2018年9月26日水曜日

月刊新潮45が休刊と発表 ー 言論の自由は何処に

月刊新潮45が、休刊を発表した。休刊前に発表した新潮社の社長の声明に疑問を感じた。以下、一部を掲載する。

>しかし、今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分に関しては、それらに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。

自分は、杉田氏のLGBTに関する論考を熟読した。反対する部分もあるが、問題のある内容とは思えなかった。勿論、反対意見はあるだろうと思ったが、自由な意見が尊重される社会では反対意見の対峙は必要なことで、全く問題はない。我が国は、大陸や某国や半島の政治勢力と違うのだから。

声明にある、常識に逸脱した偏見と認識不足とは何を意味しているのか。当該雑誌を読んでいないので単なる感想でしかないが、その表現の妥当性を判断するのは、読者ではないか。その上で、賛成反対の意見の対峙があり、そのことで言論が止揚、アウフヘーベンするのではないか。

新潮社は、月刊新潮45の発行部数が低迷していることも休刊に至った理由の一つとしている。これは、理解できる。出版社にとって、営業的な経営判断も重要である。ただ、経営上の課題と言論・表現の問題に結びつけていることに疑問を感じている。

左派系のメディアである毎日新聞も、新潮社の発表に疑問を感じているようだ(朝日新聞は、ウハウハらしい)。そうだろう。反対意見が封殺されるような社会は御免被る。
仏蘭西の哲学者、思想家ヴォルテールの発言とされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」を最初に知ったのは大学生であった。まあ、社会学を専攻する学生とっては、有名なのではあるが、現在にも通じる名言あると思う。今回の休刊問題で、改めてこの名言を思い出した。

月刊文藝春秋の左傾化が著しい。毎月にように安倍政権批判で、20数年以上購読していたが、昨年末に止めた。新潮45は、時折読んでいたが、残念ながら休刊となった。誠に惜しい。
出版不況ということもあるのだろう。しかし、紙媒体の衰退は言論世界にとっての危機であるとも思う。言論の自由を守っていくためにも、左派系保守系を問わず、言論機関の奮起を促したい。

#新潮45
#LGBT

2018年9月18日火曜日

老母の米寿を祝う宴を催した

2018年9月16日、掬水亭で88歳になる老母の米寿を祝う宴が開催された。主催は兄夫婦、弟の自分も協力。
当日は、老母の兄弟姉妹、従兄弟たち、自分たち三人の息子と配偶者三人、5人の孫(孫一人は、体調不良で欠席)、曾孫一人、その父親が一同に会し、賑やかで楽しい時間となった。宴は、和気あいあいと進み、予定していた時間を僅かに過ぎたところで、お開きに。その後は、実家に移動して二次会。最年長の従兄弟が一曲披露、音痴な自分も酔いに任せて亡父が好きだった「異国の丘」歌った。
楽しい宴は22時まで続き、出席者が三々五々引き上げたところで、後片付けを行った後で帰宅(と思います。途中で記憶がないので😅)。
老母の足腰が弱ってきたが、頭はしっかりしている。次は、白寿(99歳)の宴を準備しないと。






2018年8月9日木曜日

長崎への原子爆弾投下から73年

本日で、アメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属のB-29戦略爆撃機「ボックスカー」から長崎に原子爆弾が投下されてから73年の月日が流れた。そこで、一文を記したい月。
8月6日の記事で、 広島に投下された原子爆弾に関して記した。その記事で一つのifを提示した。

”原爆投下前に終戦の決断が出来なかったのか。 ”

筆者の見解では、広島への原爆投下は防げなかった認識している。昭和20年8月6日の状況において、海軍の聯合艦隊は壊滅状態、陸軍はレイテ決戦とインパール作戦で大敗、東南アジアやビルマを統括した陸軍の南方軍は、指揮下の部隊は作戦継続の余力を失っていた。また、満州軍も指揮下の部隊を南方方面に転用され、在留邦人を根こそぎ動員(その中には10代後半の少年兵も含まれていた)して、形の上でソ連軍に対峙していた状況であった。
しかし、大陸方面に展開していた支那派遣軍は総兵力105万余、蒋介石総統率いる国民革命軍に戦術的な勝利を重ねており、士気旺盛で降伏を受け入れる状況ではなかった。

8月9日、長崎にアメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属の爆撃機「ボックスカー」から長崎に原子爆弾が投弾される事態となった。問題は、二回目の原爆投下を防ぐ可能性があったかである。
筆者は、可能性はあったと考えている。勿論、可能性は低かったと思われるが。広島への原爆投下後、終戦への工作、つまり「ボツダム宣言」受諾への動きが、政府や陸海軍などの要人によって密かに始められている。

外務省と陸海軍は、ソ連軍が国際法に違反して満州方面に侵攻してくる可能性を正確に掴んでいる。当時、欧州において日本と国交を結んでいたスペイン駐在の外交官や中立国駐在の陸海軍武官が、その兆候を掴んでいた。しかし、その情報を生かせなかった。これは、戦前の情報戦軽視、戦後の情報機関の不在に現れている。

広島への原爆投下、ソ連軍の満州侵攻の可能性という事象を正確に判断していれば、長崎の悲劇は防げたのではないか、という思いが筆者にはある。

筆者は、あるIT系企業に勤務していた時代、長崎に何度も出張で訪れたことがある。長期出張の場合は、平和公園や『この子を残して』で著名な 永井隆博士が起居した如己堂を訪ねたこともある。
長崎への原爆投下から73年。思い出の地、長崎へ投下された原子爆弾が二度と地上に使用されないように願うものである。

ボックスカー

永井隆

如己堂

平和公園

2018年8月6日月曜日

広島への原子爆弾投下から73年

本日で、アメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属のB-29戦略爆撃機「エノラ・ゲイ」から広島に原子爆弾が投下されてから73年の月日が流れた。そこで、一文を記したい。
中学校1年生か2年生の時、当時の音楽を担当していた先生の発案で、多くの生徒が千羽鶴を折り、広島赤十字・原爆病院に届けたことがある。自分と同級生の2名で新幹線を利用して病院を訪問、入院患者の皆さんに手渡した。当時は、原子爆弾で直に被災した方々が入院されており、実際の経験談を聞くという貴重な体験となった。また、地方紙の取材を受け、中学なりの思いを伝えた記憶がある。

なんと言っても、被爆一世と呼ばれる原爆による被害を実際に受けた皆さんの体験談を直に耳にできたことは、現在に至ってみれば、誠に貴重なことであったと思う。
今、後悔していることがある。あの時の思いを何らかの方法で、文書で書き残して置くべきであったということ。現在になって当時のことを思い起こしてみても、数十年の月日が流れたことで、多くの記憶が薄れてしまったことが残念でならない。
現在であれば、記憶が鮮明なうちにPCやSNSで記録を残しておくことが可能であったろうと思う。拙文も、その思いがあって短いものであるが、過去の記憶を思い起こしている。
原爆による被害は、広島市民や長崎市民のみならず、救援活動に出動した関係者、陸海軍将兵、近隣の市町村に渡り、通常爆弾では考えられない範囲に及んだ。
当時の記録を自分が買い集めた書籍やネットなどで読んでみると、2つの点に焦点が当たると思う。

一つ
原爆投下前に終戦の決断が出来なかったのか。
二つ
原爆による後遺症への対応が十分であるか。

8月6日にソ連が満州に侵攻(日ソ不可侵条約違反の侵略行為)があった。歴史のifが許されるなら、この時点が原爆投下前に終戦に持ち込み機会であったと思う。しかし、当時の軍部や政府の一部でも和平への動きが見られたが、時間的にも原爆投下には間に合わなかったと思われる。なぜなら、原爆投下がボツダム宣言受諾への後押しになったことが明らかである。残念ながら、この歴史のifは、成り立たない願望であろう。

二つ
この点に関しては、筆者は責任を以て発言する根拠はない。今後も、参考となる書籍などを読み、自分の見解を明らかにしたいとおもう。それは逃げだろうと批判があるとすれば、このように応える。その通りです、と。言い訳になるが、このような重大な事柄を公にするには、自分なりの確信を持つことが必要を思うが故である。筆者の逃げをお許し頂きたい。

現在、本日で、アメリカ合衆国陸軍航空軍第509混成部隊所属の爆撃機「エノラ・ゲイ」から広島に原子爆弾が投下されてから73年の月日が流れた。そこで、一文を記したい。
中学校1年生か2年生の時、当時の音楽を担当していた先生の発案で、多くの生徒が千羽鶴を折り、広島赤十字・原爆病院に届けたことがある。自分と同級生の2名で新幹線を利用して病院を訪問、入院患者の皆さんに手渡した。当時は、原子爆弾で直に被災した方々が入院されており、実際の経験談を聞くという貴重な体験となった。また、地方紙の取材を受け、中学なりの思いを伝えた記憶がある。

なんと言っても、被爆一世と呼ばれる原爆による被害を実際に受けた皆さんの体験談を直に耳にできたことは、現在に至ってみれば、誠に貴重なことであったと思う。
今、後悔していることがある。あの時の思いを何らかの方法で、文書で書き残して置くべきであったということ。現在になって当時のことを思い起こしてみても、数十年の月日が流れたことで、多くの記憶が薄れてしまったことが残念でならない。
現在であれば、記憶が鮮明なうちにPCやSNSで記録を残しておくことが可能であったろうと思う。拙文も、その思いがあって短いものであるが、過去の記憶を思い起こしている。
原爆による被害は、広島市民や長崎市民のみならず、救援活動に出動した関係者、陸海軍将兵、近隣の市町村に渡り、通常爆弾では考えられない範囲に及んだ。
当時の記録を自分が買い集めた書籍やネットなどで読んでみると、2つの点に焦点が当たると思う。

一つ
原爆投下前に終戦の決断が出来なかったのか。
二つ
原爆による後遺症への対応が十分であるか。

8月6日にソ連が満州に侵攻(日ソ不可侵条約違反の侵略行為)があった。歴史のifが許されるなら、この時点が原爆投下前に終戦に持ち込み機会であったと思う。しかし、当時の軍部や政府の一部でも和平への動きが見られたが、時間的にも原爆投下には間に合わなかったと思われる。なぜなら、原爆投下がボツダム宣言受諾への後押しになったことが明らかである。残念ながら、この歴史のifは、成り立たない願望であろう。

二つ
この点に関しては、筆者は責任を以て発言する根拠はない。今後も、参考となる書籍などを読み、自分の見解を明らかにしたいとおもう。それは逃げだろうと批判があるとすれば、このように応える。その通りです、と。言い訳になるが、このような重大な事柄を公にするには、自分なりの確信を持つことが必要を思うが故である。筆者の逃げをお許し頂きたい。

現在、核拡散防止条約(NPT)により、加盟国は米英仏ロ中以外は核兵器の保有が禁じられている。核兵器という大量殺傷兵器を、米英仏ロ中の独占を許すという、現代の不平等条約と言われる所以である。加えて、NPTから脱退、もしくは加盟を拒否した北朝鮮、インド、パキスタンの核兵器が拡散、イスラエルの核兵器保有も確実視されている。
理想は、核兵器の全廃であるが、一足飛びに実現するとは非現実的発想である。まずは、最も危険な核兵器保有国で、我が国の安全保障上も最も憂慮される北朝鮮に継続的な圧力をかけ、核弾頭を放棄させることが重要と思う。

道のりは永いと思うが、千里の道も一歩から。核兵器の廃絶を考え、原爆投下ら73年の今日、一文を記した。

エノラ・ゲイ

原爆ドーム

広島赤十字・原爆病院