2016年4月26日火曜日

我が母校、埼玉県立所沢北高等学校と所沢陸軍飛行場

所沢航空記念公園は、かつての帝國陸軍所沢飛行場跡地に建設されました。所沢陸軍飛行場は、戦後直ぐに米軍に接収され、講和条約締結後も施設の提供が継続されていましたが、所沢市による官民を挙げての運動が実を結び、一部が返還されました。

所澤陸軍飛行場

所沢通信基地

所沢航空記念公園

その返還後の跡地には、防衛医科大学校、同付属病院、所沢航空記念公園、所沢航空発祥記念館、国立障害者リハビリテーションセンター、国立職業リハビリテーションセンターなどが建設されました。

(国立障害者リハビリテーションセンター、世話になりましたね。通算、三ヶ月も入院したのですから)

その基地跡地に建設された施設の一つが、埼玉県立所沢北高等学校、我が母校です。
北高は、所沢市におけるに三校目、普通科としては二校目の高校で、自分が入学した時代には半分近くが市内の中学校からの進学者であったと記憶しています。

自分は、幼い時から柔道を学び、高校でも継続したかったのですが、柔道部の先輩と衝突、啖呵を切って退部してしまい、そのまま高校時代は何をするのでない時間を過ごしてしまいました。そして、そのことが後々まで尾を引き、高校時代の同級生とは縁遠い状態になってしまいました。

高校時代は、別の高校の進学した中学校時代の友人と趣味の登山に行っており、自宅に引きこもって過ごすということでもなく、16歳から18歳までの思い出はそれなりにあるのですが、多少の寂しさはあります。

(何人かの後輩とは共にゴミ拾いの活動をしたり、埼玉西武ライオンズの試合を見たり、飲みに行ったりとはしているのですが・・・・・・・)

大学時代は、そのことを後悔したのと山登りを継続しようと思いがあり、体育会ワンダーフォーゲル部入部、アルバイトで資金を稼ぎながら、登山とスキーに明け暮れて始めました。また、一年生の時一月、四年生の先輩にと体育会本に連れていかれて、突然「今日から、ここ」と言われて面喰らいました。その時から、WV部と体育会本部の二足の草鞋を履く身となりましたが、それで良かったと思ってます。そうした、大学時代の仲間とは今でも交流がありますので、大事にしています。
閑話休題

ところで、写真は2012年9月に撮影した高校の様子です。外観は、卒業当時のままで懐かしいですね。

埼玉県立所沢北高等学校は、兄弟と親子で世話になりました。二歳年上の兄と自分、長男の3人が北高OBです。

2016年11月、高校の同窓会が行われるそうです。偶然、連絡が取れるようになった同級生に誘われたのでしが、今のところ参加する予定です。
縁遠くなってしまった高校時代の同級生、折角の機会なので再会して昔の思い出話をしてみたくなりました。同窓会、今から楽しみです。


正門です。

校舎の全面風景です。わが校は、一教室を除き、二階建てあったのが特徴でした。2階建ての理由は、通信基地の電波障害をさけるため。校舎の作りの独特でした。今は電波障害の問題の無くなったので、もし建て替えられることになったら、3階建て4階建てとなるのでしょうか。


我々が母校に寄贈した卒業記念です。 「飛翔」は、北高生が未来飛び立つ姿を表していると、最近知りました(笑)

母校に寄贈した卒業記念、「飛翔の像」です。「飛翔の像」、今は北高校のシンボルとなっているようですね。寄贈当時は、そこまで期待してはいませんでした。

同じく、母校に寄贈した「飛翔の像の」遠景です。

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