2011年3月11日、東日本大震災から丸3年が経過しました。1万数千の無辜の命が奪われた大災害に加えて、原子力発電所の事故もあり、復興の行く末が定かではありません。
あの日は、勤務先(中央区日本橋付近)でも、今まで感じたことのない大きな地震、揺れがあり、会社近くの小学校に避難しました。近隣の住民の皆さんだけでなく、我々のような勤め人も非難していました。
付近の幹線道路は大渋滞、鉄道も緊急停止しており、会社から帰宅支持がデましたが、多くの社員は徒歩での帰宅を選択していました。
私は、徒歩帰宅できる距離でないので、最初から経緯を見守ることとしました。インターネットで、津波の映像が送られて来る度に、その規模の大なることに衝撃を受けました。また、原子力発電所に何か発生したらしいとの情報もあり、何とも言えない不安感をに襲われたのを記憶しています。
自宅に携帯電話、会社の固定電話で連絡を試みたですが繋がりません。辛うじて、自宅に一回だけ繋がったでのですが、電話にでた長男が、途中で受話器を置いてしまい、その後は何度かけ直しても通話できません。この時点で、自宅への連絡も諦めました。
勤務先近くの食料品は全て売り切れ、飲料水も同様で、水道水が無事だったのが救いでした。これでも、災害の直撃を行けた皆さんに比べれば、なんの事なないと考えていたのですが、やはり家族に連絡が取れないのが、最も困ったことですね。
その内、東京メロとや西武線、東武線、東急線など私鉄各路線が徐々に運行再開、夜中3時頃になりましたが、帰宅できました。帰宅難民に近い状態であったと思います。
時分のような埼玉県から東京に通勤している者にとって、災害時の通勤経路の確保が物凄く重要だと認識しました。また、地震後に脳出血を患ったことあり、服用しなければならない薬もあり、鞄に2日分を入れてあります。家族の携帯電話の番号、氏名、既往症、服用薬を書いたメモ、薬務手帳も入れてあります。
この準備が無駄に終ることが良いのですが、東京直下型地震の可能性が報じられている現在、この程度の準備は、時分のような病気持ちにはかかせません。
東日本大地震では、未だ多くの方々が避難生活を余儀なくされています。原発事故が重なったこともあり、帰還の望みが事実上、絶たれた地域もあります。月並みですが、あの地震の被害を直接に受けなかった我々も、地震を風化させることをしないように、心していかないといけませんね。
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