昭和11年(1936年)未明、将校に率いられた歩兵第一師団の将兵1483名が決起、帝都中心部を制圧した上で、政府と軍部の首脳を殺害するという反乱事件が発生しました。
襲撃部隊を指揮したのは、第一旅団副官香田清貞歩兵大尉、歩兵大三連隊の野中四郎歩兵大尉、同安藤輝三歩兵大尉、村中孝次元大尉、磯部浅一元一等主計、所沢陸軍飛行学校操縦科学生河野寿航空兵大尉などの大尉から少尉までの若手将校でした。
襲撃の経緯
昭和11年2月25日夜半から未明にかけて、歩兵第一師団第一聯隊、同第三聯隊を中心とした下士官兵に対して非常呼集下命、実弾を配布。
一部の上級下士官を、決起を知らされており、軍法会議で罪に問われることになります。
岡田啓介総 理大臣公邸襲撃
栗原安秀中尉率いる部隊が、首相官邸を襲撃。警備に当たっていた警視庁警察官4名が拳銃で反撃、殉職
。岡田啓介首相(退役海軍大将)に間違えられて、義弟で総理秘書官の松尾伝蔵陸軍予備役大佐が殺害されました(総理の命を守るため、覚悟の上で自ら囮になったという説もあります)。
岡田首相は、憲兵の機転で生還します。
斎藤實内大臣(退役海軍大将)襲撃
部隊が内大臣私邸を襲撃、四十発の弾丸を身に受けて即死します。
鈴木貫太郎侍従長(予備役海軍大将)
安藤輝三歩兵大尉麾下の部隊が、侍従長公邸を襲撃します。安藤大尉は、鈴木大将に止めを刺そうとしますが、鈴木夫人の懇願により、敬礼をもって立ち去ります。大将は、重症を負いながらも助かりま す。昭和二十年、鈴木大将に内閣総理大臣の大命降下、ボツダム宣言受託の大仕事をやり遂げることになります。
斎藤内大臣、鈴木侍従長、岡田首相は海軍大将でした。三人が海軍大将が的に取られたことは、事件における海軍の行動に少なからずの影響を与えた可能があったと、自分は考えています。
渡辺錠太郎陸軍大将
襲撃部隊は、教育総監の渡辺錠太郎大将私邸を急襲、大将は即死します。
警視庁襲撃
野中四郎大尉指揮下の500名の部隊が警視庁を襲撃します。警視庁は、帝都の治安維持のため、特別警備隊を編成していましたが、陸軍の武装に抗すべくもなく制圧されてしまいます。部隊は、警視庁正面に重機関銃を据えて本格的抵抗を封じてしまいます。
現在の警視庁は、特別襲撃 部隊、銃器対策レンジャー部隊など当時の警視庁特別警備隊以上に武装していなすが、やはり自衛隊の重火器にはかないません。軍事組織は、警察力を凌駕することは出来ないという教訓ですね。
※ 私は、自衛隊肯定論です。
陸軍大臣告示
これが、現在なっても議論を読んでいる、不可解な文書です。陸軍は、事態に収拾に関して二つ割れ、青年将校の主張に融和的な勢力と、石原莞爾少将のように断固懲罰を主張する勢力に割れます。この陸軍大臣告示は、、決起将校の行動を追認しているような、したいないような意味不明の文書で、現在いたるまで226事件を語る際に問題になります。
海軍の動き
午後8時40分、戒厳令が施行され、東京警備司令部に戒厳司令部が設置されます。海軍は演習中であった第 二艦隊を大阪湾に、第一艦隊を東京湾に急派します。また、横須賀特別海軍陸戦隊の一部を芝浦に派遣し、海軍の施設の警備に当たらせます。
海軍も青年将校に同情的な勢力(加藤寛治大将)もありましたが、三大将を標的にされたことで、海軍省は反乱部隊に対して徹底抗戦を決定します。これは、海軍の陸軍に対する敵対意識があった、と言ったら言いすぎでしょうか。
と、このような経緯で、帝都を揺がした日本最大のクーデータ事件が幕を開けたわけですね。二二六事件が、陸軍大事告示など、今に至っても不可思議な事が多すぎます。専門家のにならず、在野の歴史家や研究家など尽きることがない話題を提起してくれて、且つ誠に大事は歴史上の大事件だと思います。
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