2016年12月23日金曜日

天長節

本日は正式には天長節、世間的には天皇誕生日で、今上天皇陛下が昭和八年一二月二十三日に御生誕遊ばれた、誠にお目出度く、国民等しくお祝い申し上げる日です。
皇弥栄

天皇皇后陛下両陛下御真影
天皇皇后両陛下御真影

天皇陛下八十三歳の御生誕日、天候の恵まれ誠に天長節に相応しい日となりました。十二月しては暖かいとなり、三連休の初日ということもあって、行楽に出掛ける方も少なくないと思います。
天長節でありますが、そうした形で多くの国民が余暇を有効に過ごすことも、陛下はお喜びになると思います。何といっても陛下が御望み遊ばされるのは、国民の幸福であり国家の安寧です。
皇室の有り難さを感謝しながら、国民が楽しむことが出来る我が国の佳さを考えることの重要と思います。

また、こうした時間にも警察、消防、海上保安庁、自衛隊は、いざ鎌倉に備えて、訓練と警備警戒態勢にあります。彼らの日頃のご苦労にも、感謝いたします。

天長節に先立って、天皇陛下に於かれた有難くも御言葉を御発表あらせられました。

産経ニュースより


ところで、平成二十八年八月八日に天皇陛下におかれた譲位を御希望をお持ちと御表明遊ばれました。

平成二十八年八月八日
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば


天皇皇后両陛下に於かれたは、数々の御公務、行幸、表敬訪問など御高齢の関わらず、御精励遊ばされており、誠に有難きことであります。しかし、御年齢からくる御支障も避けがたく、御言葉を読みながら、残念ながら従来通りの御公務も御遂行も難しいと感じた次第です。

天皇陛下の御率直な御言葉を伺い、その御叡慮を拝察仕りましたが、御高齢により国民に迷惑を掛けることを御懸念遊ばされていることを切々と表明されておられました。
天皇后陛下、東宮殿下同妃殿下、秋篠宮殿下同妃殿下も御言葉も御誕生に御言葉を発表せられ、天皇陛下の御意向の賛成せられておられることが分かりました。
皇室一体となって、天皇陛下の御意向を実現したいとのお気持の表れと判断しています。

日本国憲法の定めにより、天皇陛下は国政上の権能を有しません。あのお言葉がギリギリの表現であったと思います。

現在、政府の有識者会議が陛下の御譲位に関して、検討を進めています。民進党も「皇位検討委員会」の中間発表をする予定です。どのようになるかは、まだ予断を許しませんが、陛下の御意向が分かった以上、承詔必謹あるのみ、連立与党、野党第一党の民進党も政争の具にすることのないよう、国会議員諸氏の良識に期待します。


2016年12月8日木曜日

真珠湾奇襲から75年

 大本営 陸海軍部発表 十二月八日 六時 帝国陸海軍は本八日未明 西太平洋ニオイテ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ。


平成28128日(2016128日)は、帝國海軍の第一航空艦隊が米合衆国布哇準州(当時、現在布哇州)の真珠湾に在泊していた米太平洋艦隊主力、米陸軍航空軍布哇在駐留航空部隊を急襲、大東亜戦闘(太平洋戦争)の幕開けとなった戦から75周年となる、日本史においても世界史においても、重要な日です。

昭和16128日午前130分(日本時間)、淵田美津雄海軍中佐を総指揮官とする、直掩の零式艦上戦闘機43機、99式艦上爆撃機51機、97式艦上攻撃機89機、合計183機を擁する第一波攻撃部隊が空母6隻を離陸、布哇準州オハフ島真珠湾に向けて飛び立ちました。

現地時間127日午前749分(日本時間128319分)、第一波攻撃部隊が米太平洋艦隊と米陸軍航空基地に到達し、淵田中佐が「全軍突撃セヨ」との無電を全機に打電、総攻撃を命じました。

752分(日本時間128322分)、淵田中佐は「ワレ奇襲ニ成功セリ」と暗号略号「トラ・トラ・トラ」を打電、全軍攻撃開始、真珠湾在泊の艦艇、航空機、施設などを雷撃、空爆、機銃掃射を敢行しました。

現地時間午前854分(日本時間424分)、第二波攻撃隊総指揮官嶋崎重和海軍少佐が直掩の零式艦上戦闘機36機、99式艦上爆撃機81機、97式艦上攻撃機54機、合計171機に全軍突撃を下令、打撃を受けていた米陸海軍部隊に追い打ちを掛けました。

航空部隊による空爆とは別に、5隻の特殊潜航艇、甲標的に乗り込んだ10名の将校下士官により攻撃が実施され、酒巻少尉を除く9名が戦死して二階級特進、9軍神と称されることなりました。

真珠湾奇攻撃により、米太平洋艦隊は戦力の大半を一時的に損失、修理が完了するまで帝國海軍との戦力差に苦慮することなります。しかし、主目的とした米空母は「エンタプライズと」と「レキシントン」真珠湾を出港しており、「サラトガ」「ホーネット」「ヨークタウン」「ワスプ」「レンジャー」は大西洋に配備されおり、帝国海軍の攻撃から免れることとなりました。これが、後のミッドウェイ海戦の勝敗を分けることになりました。

真珠湾奇襲に際しては、軍部と外務省との合意で対米最後通牒は攻撃前に手交することのなっていましたが、幾つかの不手際が重なり(これに関しては、複数の説があります)、結局一時間後となり、米国政府と国民に「真珠湾を忘れるな」、「Remember Pearl Harbor」という憤激を巻き起こし、第二次世界大戦参戦の格好の口実を与えることなりました。それまでは、米国の世論は対日強硬の方向にありましたが、開戦まには至ってません。それが、ルーズベルト米大統領が対日開戦を画策したとの陰謀論に繋がるのです。

以上が、真珠湾奇襲だけに特化した1941128日(布哇時間7日)のあらましです。実は、このことだけを取り上げることは、歴史を考える上で諌めなければなりません。それは、大きな戦というものは、その前に生起した様々な歴史的事象の集合体であり、それまでの経緯を知らずして、もしくは正しく理解せずに考察することは、甚だ危険なことです。
この度、安倍晋三総理大臣が、真珠湾奇襲攻撃から75年を経過して、初めて日本の為政者として訪問、慰霊することになったのも、その現れだと考えています。

亜細亜おける日米同盟が、欧州の米英関係と並ぶ世界で最も重要な二国間関係と言われながら、日本国総理大臣の真珠湾訪問までに75年の月日がかかったことに、思いを致す必要があると思います。

この度の布哇訪問に関しては、左右から賛成反対の声が上がっています。曰く、遅すぎる、慰安婦への謝罪が先だ、亜細亜諸国への謝罪が不十分、真珠湾奇襲はルーズベルト米大統領に嵌められた云々。

ネット界隈でも、妄想の世界でも楽しんで頂きたい方々の投稿が相次いでいます。安倍首相、無視しましょう。この度の布哇真珠湾訪問は、オバマ大統領の広島訪問と並び、首相が悲願とする戦後レジーム総決算の一助になることは間違いないと思います。そこで、気になるのが、オバマ大統領との最後の首脳会談で発表されるであろう首相談話です。謝罪するのではなく、未来志向のは談話が表明されることを大いに希望します。

戦闘機部隊の発艦準備中の空母甲板

空母を発艦間近の零式艦上戦闘機


奇襲部隊の攻撃で炎上中の米海軍の戦艦

2016年12月6日火曜日

安倍首相の真珠湾訪問決定

安倍首相の真珠湾訪問が決定しました。昨年の米上下両院における安倍首相の演説、今年5月に行われたオバマ大統領の広島原爆記念公園訪問と演説に続き、戦後政治に残された課題の一つが解消したことになるのでしょうか。そうであって欲しいですね。

日米の同盟関係は、思いだしたくもない暗黒の民主党鳩山・菅政権時代で大きく揺らぎましたが、その後は堅固なものになって来ています。しかし、真珠湾奇襲攻撃は、結果として宣戦布告前の騙し討ちになってしまったこともあり、日本国内閣総理大臣が訪問することが、長年の課題でありました。その機会がようやくにして訪れたということだと解釈しています。

今回の訪問で、日米同盟関係を強固にし、大陸や半島北部の勢力を牽制すると共に、トランプ次期米大統領へ影響を及ぼすことを狙ったのだと思います。

おそらく、左派の報道メディアや日本共産党など野合連合は、非論理的な非難を繰り広げるでしょうが、今回の真珠湾訪問を有意義なものにして欲しいと、安倍首相に大いに期待しています。

安倍晋三首相、26、27両日に米ハワイ訪問へ 真珠湾で慰霊も

2016年12月2日金曜日

ボーイスカウト所沢第一団創立60周年

ボーイスカウト所沢第一団創立60周年
藤本所沢市長のBlogを拝見して、ボーイスカウト所沢第一団が、目出度く創立60周年を迎えたことを知りました。
かくゆう筆者も、南小学校の児童であった時に学級の友人に誘われて、ボーイスカウト所沢第一団の門を叩き、数年間でしたがスカウト活動を経験したことがあります。
この度は、ボーイスカウト所沢第一団創立60周年に際して、拙文をBlogに投稿させて頂きます。

ボーイスカウト運動の創始者、ロバート・ベーデンパウエル卿

ボーイスカウト活動と宗教法人
ボーイスカウト活動は、日本ボーイスカウト連盟の公認の基に、キリスト教会各派(カトリック教会、福音教会、聖公会、モルモン教会、メソジスト教会など)や仏教各派、神道(神社本庁、黒住教)、金光教、世界救世教などの宗教法人傘下の教会や寺院、神社が活動に協力することも珍しくありません。勿論、宗教団体と関係なく運営している団もあり、信仰の有無が絶対的な条件ではありません。

因みに、筆者が在学した大学では、体育会にローバースカウト部、アダルトスカウト部が活動しており、シニアとしてスカウト活動を行い、大学内外で奉仕活動を行っていました。

公益社団法人日本ボーイスカウト連盟

ボーイスカウト所沢第一団とカトリック所沢教会
現在、所沢第一団は北野のスカウト会館を拠点にしていますが、自分が入団した時は、星の宮のカトリック所沢教会で活動していました。カトリック所沢教会の敷地内にスカウト会館があり、日曜日に団員が集まって、様々な活動を行っていました。筆者は自宅が西住吉にあり、星の宮が直ぐ近くだったこともあって、歩いて通っていました。
カトリック所沢教会のウェブサイトによると、その成り立ちは以下のようになっていまが、筆者が入団したのは1971(昭和46年)と記憶しています。

1955年 星の宮に献堂され、ピエール・ローランド神父とユージェン・ジュゲ神父が交互に司牧。
1964年 岡宏神父が着任。所沢教会の多彩な活動の基礎を築く。
1974年 現在の小手指へ移転。現代の幕屋としてプレハブの聖堂と信徒会館が建てられた。

創立60周年ということは、教会の献堂が1955年ですから、翌年には創立されていたのですね。一年で活動を始めたということは、割と早かったと思います。教会の岡先生、記憶しております。温厚な方でしたね。

1974年(昭和49年)、教会は星の宮から小手指に移転、スカウト会館は北野に移動しました。移動に際しては、スカウト会館の建物を解体して移動、組み立て直す方式だったと記憶しています。つまり、新規建築でなく再利用ですね。

所沢第一団は、カトリック所沢教会が拠点でしたから、指導者の多くの方がカトリックの信者でした。また、団員も父兄も教会の信徒の方が目立ちましたね。
夏に千葉県の勝浦でサマーキャンプが行われたことがあったのですが、朝食後にミサが行われ、信徒の団員や付添の父兄は儀式に参加していました。当然、お寺の檀徒や神社の氏子、無宗教の団員もいますが、黙って見学していました。

カトリック所沢教会

ボーイスカウト所沢第一団

閑話休題
筆者は、少々複雑な立場です。一応、長久寺に亡父のお墓があり、伯父のお墓もあります。従って、長久寺の檀徒ということになるのですが、幼稚園の2年間は寿町のこひつじ幼稚園に通園してました。当時、こひつじ幼稚園は緑町と寿町の二ヶ所がありました。自分は、自宅に近かった寿町の園に歩いて通園していました。はい、当時の通園は歩きだったのです。
土曜日が休み、日曜日が通園日で、牧師さんの説教や聖書の話を聞いて育った筈ですが・・・・門前の小僧習わぬ経を読むとはいかなかったようです。

なぜ、キリスト教系の幼稚園に通園したか。それは、こひつじ幼稚園長で牧師でのあったT氏が、両親の仲人でありました。その理由が、分からない。
母は、長野県の小布施町出身(栗と北斎で有名です)なのですが、二代前までは宮司でした。従って、母の実家の仏壇はありません。神棚だけです。

父は長久寺の檀徒、母は宮司の流れ、仲人は牧師。訳が分かりませんね。ただ、宗教に寛容な日本らしくていいかも(笑)

その後、牧師のT氏の息子夫婦が、兄夫婦の仲人を務めて頂きました。親子二代でお世話になりました。兄夫婦が、三人の子供をこひつじ幼稚園に通園させました。当然ですね。

筆者の息子二人は、牛沼にけやき幼稚園でした。理由は色々とあるのですが、自分してはこひつじ幼稚園に行かせたかった、と今でも思います。色々な理由があった、ということでご理解下さい。

サマーキャンプ
数年間のボーイスカウト活動で、最も思い出に残っているのがサマーキャンプです。教会の神父さん、信者の方、一部の父兄の付き添いで、千葉県の勝浦でサマーキャンプを行われ、筆者も参加してきました。
なにせ、学校の友達以外と集団生活を送るのは初めての経験、海無し県に育ったこともあり、全てが新鮮な経験でありました。
ただ、一点だけ悔しい思いをしたことがあります。サマーキャンプの主要な行事として、遠泳を行なうことになっていました。しかし、泳力の審査の結果、メンバーから外されてしまったのです。目標にしていたので、悔しかったですね。

自分は、幼稚園のとき溺れたことがあり、その時の恐怖で泳ぐことができませんでした。小学校の水泳の授業や夏休みの水泳教室で、ひたすら練習していました。このサマーキャンプで、遠泳を泳ぎ切ることが目標だったのです。

募金活動
これ、ボーイスカウト活動では、切っても切れないものですね。何度も何度も街頭に立ちました。最初は、恥ずかしくて声が出せないのです。ただ、段々に大きな声を出せるようになりました。そうすると立ち止まってくれる人が増えてきます。やはり、大きな声で呼び掛けるのは大事ですね。
ボーイスカウトに限らず街頭などでの募金活動を見ると当時を思い出します。

ガールスカウト
自分が活動していた時は、ボーイスカウトは少女の入団を認めていませんでした。現在は、連盟として少女の入団も認めており、団の方針の任されているとのことです。
ある時、募金活動のために教会に集まりました。そこに、見られない集団が現れました。なんと、生まれて初めて見る、ガールスカウトの団体でした。それまで知らされていなかったのですが、共同で募金活動を行なうことが決まっていたそうです。
いやぁ、嬉しいの恥ずかしいの、みんなそわそわ、ひそひそ話がとまりません。こちらは、泥だらけの集団、先方は綺麗な制服をお召しになった令嬢方です。比較するのも失礼というもの。
新所沢、所沢駅、西所沢駅に分かれて募金活動を行ってのですが、大きな声を出すことが出来ず仕舞いでした。

秋津に東星学園という私立中学校・高校がります。この学校のグランドに、付近の団が集まって合同の運動会が開催されたことがありました。その時も、ガールスカウトが参加したことがありました。この時も、女っ気のない集団は、大騒ぎです。他の団に聞いたのですが、普段からガールスカウトと共同で活動しているとのこと。羨ましかったですね。

オーバーナイトハイク
サマーキャンプと並ぶ、所沢第一団の重要行事でした。夜10時頃、飯能駅に集合して、星の宮のスカウト会館まで歩き通す、寒さと耐久力を要する行事でした。
この行事では、父親達の協力が必須です。子供たちにとって、かなりの距離を歩くので付き添いが必要です。また、体力に個人差があるので、歩いている内にバラバラになってしまいます。父親達が、相談しながら団員がはぐれないように、行方不明にならないように、体調を崩さないように付き添ってくれました。一部の父兄は、自動車で周回して、続行が無理と判断した団員を教会まで送っていきます。父兄だけでなく、高校生や大学生になったOBも参加した、一大行事でありました。
教会に帰ると、母親達が暖かい豚汁か饂飩か何かを振る舞ってくれました。このオーバーナイトハイクは、ボーイスカウト所沢第一団挙げての一大行事であったと思います。

兎狩り
場所は忘れましたが、兎狩りに参加したことがあります。これも大きな行事でしたが、参加するのは中学生以上であったと記憶しています。ボーイスカウトの範囲であっても小学6年生は、参加は認められなかった。やはり、生きた兎を狩るという行為は、小学生には無理と判断されたのだと思います。
狩りの方法は、全員で野原を包囲、棒で兎を追い込んで行くのです。兎が仕留めることが出来たら、バーベーキューで食べる予定でしたが、結局は一羽しか(兎は、匹でなくて一羽、二羽と数えます)、仕留められませんでした。
獲物を見ただけで残念ながら賞味することは叶いませんでしたが、それで良かったのかもしれませんね。

閑話休題
兎狩りが行われたのは、ボーイスカウト運動の創始者が、聯合王国のロバート・ベーデン- パウエル卿であることに関係しているのかもしれません。
 兎狩りは、聯合王国の上流階級の嗜みですから、罪悪感もないのでしょうかね。今だったら、決して許されないでしょうね。ママさん達がヒステリー、それを聞きつけたお役所も上や下への大騒ぎ。
しかし、日本でも鷹狩は上層の侍の嗜みであったし、決して奇異な風習ではありません。自分は、この行事に参加できたことを後悔はしていません。良かったと思っています。

行事名は忘れましたが
 こんな行事もありました。3人程度で一組になり、目隠しをされて自動車で移動、そこから地図とコンパスを使って星の宮の教会まで帰ってくるという計画でした。
しかし、自動車から降ろされて目隠しを解いた瞬間に、置いて行かれた場所が分かりました。入間市の宮寺辺り、国道16号線付近でした。なぜ分かったかというと、家族でサマーランドや横田基地に、よく行っていたからなのです。場所は分かっているし、帰り道も知っています。地図もコンパスも使う必要もなく、歩き続けて教会まで辿り付きました。
 今だったら、小学生を置いてきてしまうのですから、とんでもないことですね。保護責任者遺棄に問われかねませんね()

閑話休題
当時、横田基地沿いに二軒のドライブインがあり、三階の屋上から米軍機が見られたんです。小学生の時はベトナム戦争中だったので、戦闘用航空機が横田基地に駐留していました。B-52を見たこともあります。そうした理由で、16号線付近は記憶にあったのです。

クリスマス
カトリック教会です。イエスキリスト誕生日は、当然祝福の日となります。ボーイスカウト所沢第一団でも、クリスマスのお祝いを行いました。当然、ノンアルコールでしが()
信者の方や、団の父兄が準備したお祝いの御馳走で、クリスマスを祝った記憶も残っています。

教会の移転と退団
自分がボーイスカウト活動を行ったのは、実際はほんの数年でありました。理由の一つは、教会の移転です。
星の宮にあったカトリック所沢教会が、小手指に移転することになりました。教会の敷地であったスカウト会館も、解体して北野に移転、団員も新たな拠点で活動することになりました。移転後も、活動は継続していたのですが、退団をすることにしました。

当時の小手指は、現在のように住宅地ではなく、一面が野原でした。ある意味、スカウト活動には絶好の場所なのですが、歩いて通っていた環境から激変して、継続が難しくなりました。家業が自営業なので、両親は日曜日も仕事のことが珍しくなく、自動車での送迎の余裕もありませんでした。
中学校では、小学校から習っていた柔道の練習や試合と重なることもあります。また、並行して山登りも始めていました。そうした理由もあって、退団をさせていただくことになりました。

ボーイスカウト活動に参加して
今にして思えば、ボーイスカウト活動が高校から大学までの登山に繋がったのは間違いありません。そして、その大学の学友達とは、今に至るまで交友が続いており、人生の貴重な財産になったということなのかもしれません。

聞きたいこと
 ボーイスカウト埼玉県連盟のウェブサイトを見ると、所沢市では第一団から第五団までが活動しているようです。自分が活動している時は、第一団まででした。第二団から四団までは欠番なのでしょうか。それとも解散してしまったのか。気になりますね。
 ボーイスカウトのような野外活動が、停滞してしまっているとしたら残念です。少子化、塾通い、ゲームの隆盛など様々な理由があるのでしょうが、ボーイスカウト、ガールスカウトのような野外活動、奉仕活動。無駄ではありません。子供達には経験してみることを、親御さん達にはお子さんに進めて頂けることをお願いしたいです。