1995年に発生した宗教法人を装ったテロリスト集団による、地下鉄サリン事件から、本日で丁度20年です。早いものですね。
1995年は、1月17日に阪神淡路大震災が発生、多くの方々が犠牲になり、生き残られた方々も仮設住宅や学校などの避難を余儀なくされていました。そうした混乱の中での、卑劣なテロ事件が発生、日本国の危機でありました。
当時、自分は神奈川県横浜市港北に居住しており、東横線で日吉駅から中目黒駅を経由して、日比谷線で神谷町駅まで通勤していました。
事件のあった日は、神谷町駅においても、テロ実行犯によってサリンが散布され、一名の方が犠牲になり、数百名の重傷者が発生しました。
当日朝の行動
1 7時20分頃、マンションを出発
2 新聞を忘れたことに気が付き、取り替える
3 15分後、日吉駅着
4 渋谷駅電車に搭乗
5 中目黒で下車、日比谷線を待つ
この時、中目黒駅で放送があり、トンネル内で煙が発生、日比谷線が一時不通、渋谷行きに振替となる。
渋谷駅から銀座線で虎ノ門に行き下車、会社へ。
問題は、2の新聞を忘れたことです。当時、虎ノ門の所在していたIT系企業に勤務していたのですが、早めに出社して、珈琲に飲みながら新聞を読むのが習慣でした。ただ、時たま忘れてしまうこともあり、其の場合は取りに帰ることはありません。この時は、本当にたまたまでした。
もし、新聞を取りに帰らずに、そのまま日吉駅に向かっていたらどうなっていたか。あとから、中目黒駅から神谷町駅までに掛かる時間を計算したのですが、事件に遭遇した可能性が高いことが分かりました。どうして、あの時に限って、新聞を取りに戻ったのか。未だに理由は、わかりません。たまたまとしか、言えないのです。
犯人たちは、中目黒駅から進行方向三両目の、三番目のドア付近でサリンを散布しました。自分が、乗車する場所も同じです。この場所は、駅に改札に一番近い階段なんです。従って、最も乗降客の集中する車両、ドアであり、テロリストは下見で分かっていたのだと確信しています。
この事件は、世界に震撼を与えることになりました。化学兵器によりテロが実際に発生、その被害の大きさが白日のものに晒されたのですから。
事件後、上九一色村のテロリスト集団の拠点は、国連機関の査察を受け、国の費用で撤去されました。それは、国際条約上の義務だったからです。
この事件の時、陸上自衛隊の第101化学防護隊が除染に活動しています。自衛隊が、国内の治安活動に、実質的に参加した初めての事案にもなりました。
このテロ事件の時、長男は妊娠三カ月でお腹の中でした。事件から暫くたってから、運が悪いことに事件に遭遇してしまった妊婦さんが、医師とや旦那様、家族と相談して泣く泣く中絶したというニュースを見ました。そのニュースを見た嫁は、その一事をもっても、このテロ事件は許されるのでないと激怒していました。そのような激しい怒りを表すことは初めてで、吃驚したことを覚えています。
このテロ事件は、実際に現場に遭遇した人だけでなく、間接的にも多くの人を不幸しました。改めて、首謀者の松本智津夫やテロリスト集団の幹部、関係者が罪深さと思い知らされます。
現在、このテロ事件を知らない若い世代が、偽宗教集団に加入していることの危険性を思わざるを得ません。
あれから20年を思っての雑文です。