操作ミスで、一旦投稿した記事を削除してしまいました。キャッシュから復元しようと試みたのですが、残念ながら断念しました。ただ、思いを込めた記事だったので、改めて投稿する事にしました。
2012年8月15日、終戦記念日でした。天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、また戦没者のご遺族がご出席する中、全国戦没者追悼式が開催されました。8月15日は終戦記念日ですが、私にとって、家族のとっても特別な日です。丁度20年前の1992年8月15日土曜日、父親が肝臓がんで他界しました。例年、8月15日は酷暑だという記憶があるのですが、この日もそうでした。
毎年8月15日は、菩提寺のご住職が実家に来られてお経を挙げて頂くのが慣例です。その慣例が果たせなかったのが、2010年8月15日でご住職が体調を崩された年と2011年8月15日、私が入院していた年です。
父親は肝臓がんを患い、それが病因となって65歳で他界しました。その父が他界する12年前の1980年、脳挫傷の大怪我を負いました。その日は、所用があって母親の実家(長野県)を訪ねた日の出来事、私が大学一年生の時でした。夜(金曜日であったと記憶しています)、叔父から電話があり父親が怪我をしたので、健康保険証を持って急ぎ来て欲しいとのこと。翌日早朝、信越本線を使って長野駅で待ち合わせた叔父を訪ねて行きました。その場で、脳挫傷であること、手術の必要があること聞かされました。長野駅の最寄りにあった長野日赤病院に駆けつけ、担当医の話を聞きました。
担当医の話は、19歳の大学生にとっては衝撃的なものでした。脳内にピンポン玉大の血腫があり命に関わる状態であること、手術の成功の可能性は50%、成功しても言語と計算に障害が残る可能性あることの説明がありました。その上で、手術の同意書に署名して欲しいと言われました。母親と二人なのか、私一人だったのか記憶が確かでないのですが、同意書にサインをしました(私一人で署名した記憶があります)。
結局手術は成功、しかし高次脳機能障害が残りました。計算は日常生活に支障がでることはありませんでした。ただ、失語症で悩まされることとなった訳です。
私は、高血圧症を起因とする脳出血、左側頭葉の脳血腫となり、失語症が残りました。父は頭部外傷、自分は脳血管障害となり、父親と障害の程度は異なりますが、何の因果か同じ失語症に悩まれることとなった訳です。しかし、自分が父親と同じ失語症となり、初めて分かることが多々あります。
失語症なので、言葉が素早く出ないことが少なくありません。特に緊張した場面や、初めて会う人などの場合、どうしても言葉が上手くでません。その事で、職場でも辛い、また悔しい思いをすることがあります。家族や知り合いに申し訳ないと思うこともあります。そして、思うのです。亡き父親も同じであったのだろうと。辛い時、悲しい時、情けない時、時々に思うことがあったのだろうと。
よく親が亡くなってから初めて理解ることがあると言われますね。私は、それに加えて程度の問題はありますが、父親と同じ失語症になったことで、亡き父親の思いが理解できるようになりました。これは、母親にも兄弟にも家族にも判り難いことだと思います。そして、その事を非難する考えもありません。私も、自分自身が高次脳機能障害となり、そこで初めて解ったことですから。
私の病気に関しては、家族にも兄弟にも親類にも友人にも職場の同僚、上司(一部を除く)にも感謝しています。また、迷惑をかけたことを申し訳なく思っています。父親も自分の怪我について、恨みがましいことを言っていた記憶はありませんでした。ただ、自分も同じ失語症になったことで、父親の葛藤が理解出来るようになったということです。そして、自分自身にも同じような葛藤があるということです。
父親の他界から20年、私も症状は軽いとはいえ同じ境遇になり、日々考えることが多くなってきています。考えながらも、前向きな考えでないといけませんね。時として、否定的な思いになることが、正直あります。しかし、病気になってしまったことは事実として受け入れないといけません。否定的にならず、前向きにいこうと思っています。
m(_ _)m