2010年1月17日日曜日

兵庫県南部地震から15年

本日(2010年1月17日)は、気象庁命名の「兵庫県南部地震」、時の政府(自民、社会、さきがけ三党連立政権)の閣議了承された「阪神・淡路大震災」から丁度15年です。今日の報道番組は、小沢民主党幹事長の政治資金疑惑がトップニュースで、この大震災15周年は二番手の扱いでした。これも風化の流れで、致し方ないということなのでしょうか。

以下続きます。

15年前の朝、当時は横浜市でマンション住まいでした。朝のNHKニュース、関西方面で地震があり、死傷者がでた模様との報道をしていました。ああ、大変だな程度の認識で家を出て、当時勤務していた会社に出勤。すると、先に出勤していた同僚たちが、大阪営業所に連絡が取れないと大騒ぎでした。関西方面の出身者や転勤者達が、出勤後に被害の大きさを知り、家族や親戚の安否確認をするために電話連絡を試みたのですが、電話が不通であったのです。当時は、携帯電話の普及前、個人所有も珍しく、電話連絡は固定電話が主力でありました。
総務部門が大阪営業所在勤者の所在確認に追われ、各部門も独自に連絡を試みて始め、通常業務は二の次とい状態でしたね。何とか連絡がついた社員が、自転車やバイクで行方不明社員の自宅を確認に回るという手段も用いました。それでも、全員の安否が確認できたのは一週間後でした。ある社員の家が完全に倒壊、見回った社員が近所で聞きまわったのですが、所在不明。避難所から連絡がきて、ようやく無事が判り、関係者一同ようやく安心したということもありました、
当時は、既述ように携帯電話も現在のような普及状況でないので、避難所に着の身着のままで非難すると、通信手段が限られた状況では仕方のないことでしたね。
現在、企業や官庁でBCP/BCMの作成に注目が集まっているようです。朝のニュースでも埼玉県庁のBCPが取り上げられていました。ただ、当時の状況を思い出すと、BCPのようなもの存在しませんでしたが、置かれた状況の中で試行錯誤しながらも懸命に対応していたと思います。あの状況なかで、暴動や略奪が一件も発生しなかったことを驚きのニュースとして発信していた外国のメディアもありました。また、そうした被災者の有り様を、作家・評論家の堺屋太一氏は「賢民」と評されました。思い返してみて、被災者の皆さんや関係者は、悲しみ過酷な状況の中で、賢明に対処されたと思います。現在のBCP/BCMの作成の風潮が、こういった過去の貴重な経験を生かし、作成することが目的と化して即物的唯物的なものに堕すことがないようにしないといけませんね。

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